世界の名画を紹介した、ある映画館の終焉。
日本におけるミニシアターの草分け、岩波ホールは1968年の開館から現在まで、世界の優れた映画を発掘し、上映してきた。その根底に流れる思想は、「エキプ・ド・シネマ」と呼ばれるものだ。開館当初から総支配人を務めた高野悦子(2013年没)は、自著『私のシネマライフ』で説明している。
「エキプ・ド・シネマとは映画の仲間という意味のフランス語で、岩波ホールを根拠地として、世界の埋もれた名画を世に紹介する運動体の名称です」
岩波ホールが積極的に取り上げたのは、映画界の常識では商売になりにくいと敬遠されてきた芸術作品の数々だったし、なかでも熱心だったのは非欧米作品の紹介だった。高野いわく、その理由は次の通りである。
「映画をつうじて知られざる国の真の姿を理解することが大切だと思うからです。誤解とか偏見によって人は対立を生みます。(中略)世界の平和を考えるとき、私たちは公正な広い視野をもつ必要があると思うのです」
現在、岩波ホールで公開されている『メイド・イン・バングラデシュ』は、バングラデシュの縫製工場で働く女性が労働組合の結成に奔走する過程を描き、その劣悪な労働環境を告発する物語だ。監督は本作が3作目となるバングラデシュの女性監督だが、女性による映画に光を当てることも、岩波ホールは開館以来忘れなかった。
また、最後の公開作品となる『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』は、伝説の紀行作家チャトウィンが辿った道のりを、これもまた伝説の映画作家ヴェルナー・ヘルツォークが訪ねるという、2つの軌跡が交差するドキュメンタリーだ。作中、ヘルツォークは言う、「世界は徒歩で旅する人にその姿を見せる」のだと。岩波ホールも同様に、1つの作品を数ヵ月間、じっくりと時間をかけて上映し、あたかも徒歩で旅するようにして、観る人に世界の姿を提示してきた映画館だった。
7月29日をもって閉館する、岩波ホールが灯してきたその火。消すも、消さないも、後に残される私たちの責任だ。