DAY.3:憧れのスイスアルプス、忘れられない風景
花の香りに満たされたグラースでの日々は、僕の嗅覚をこれまでにないほど研ぎ澄ましてくれた。自分でオリジナルの香水を作るという夢のような体験からは、香りの繊細さ、奥深さ、何より面白さを教えてもらった。
そうなると、がぜん香りの源に興味が湧いてきて、グラースで出合った花とはまた違う「高山植物」をこの目で見て、その香りを体感してみたいと強く思うようになった。それで、スイスアルプスまで足を延ばしてみることにしたのだった。
ニースにあるコート・ダジュール国際空港からスイスのチューリヒ空港までは1時間と少しのフライト。できる限り山での時間をつくりたかったので、ナイトフライトを利用し、21時すぎにチューリヒに到着。翌朝、高速列車でスイスアルプスの麓にある古都、ルツェルンに向かった。
スイスは鉄道文化が発達していると聞いていたけれど、まず驚いたのが、荷物運送サービス。チューリヒ空港駅でスーツケースを預けたら、なんと翌々日に到着予定のザンクト・ガレン駅で受け取れるという。
これならすごく身軽にアルプスの山旅ができる。同じく鉄道網が張り巡らされている日本でも同じようなサービスができるんじゃないかな、いや、やってほしい!と、そんな興奮から始まったスイスの旅。快適な高速鉄道に乗って45分ほどでルツェルンに到着した。
グラースが「香水の都」だとしたら、ルツェルンは「水の都」だ。フィアヴァルトシュテッテ湖(ルツェルン湖)のほとりに広がるこの町はスイスで最も美しい都市と言われていて、町をぐるりとアルプスの山々が囲んでいる。
ここから鉄道に乗って、アルプスの玄関口となるインターラーケンまで移動する。今日はかなりのハードスケジュールだから、車中で眠ろうかと思ったのだけれど、この「ルツェルン=インターラーケン・エクスプレス」がすごかった。約2時間、アルプスの峠を越えて走る車窓からは、いくつもの湖が見え、その湖面は光の角度によって色を変える。世界にこんな多様な「ブルー」があるなんて。結局景色に釘付けのまま、インターラーケンの駅に降り立った。
インターラーケンは名峰アイガー、ユングフラウ、メンヒの三名山を抱くユングフラウ地方観光の拠点となる村で、ここを起点に登山鉄道やロープウェイを乗り継いで、バリエーション豊かな登山やトレッキングができる。
そこから2つ鉄道を乗り継いで、標高約2,000mのシーニゲ・プラッテへ。ここは三名山が正面に見えるビューポイントのひとつで、駅に隣接して高山植物園がある。スイスアルプスで見られるほぼ全種類にあたる約600種類のの花々が見られるスポットだ。
さらに植物園からはそのままハイキングコースに入れて、自分の足で歩きながら野生の高山植物を観察できる。ハーブ類もたくさん生育していて、岩場に根を張るたくましいものや、草原の風に気持ちよさそうに吹かれるもの、氷河に生きるもの、ひとくちにハーブと言っても、自然の中で見ると生き方は様々。
名前がわからないものも多かったけれど、一つ一つ香りを確かめて歩く経験は、素晴らしいものだった。
何より忘れられないのは、アルプスの山々から吹いてくる爽やかな風の感触。まるでほのかなミントのような爽快さで、こんなイメージで香りを作ってみたいなと、ふと思った。
続いて訪れたのは、ラウターブルンネンという小さな谷あいの村。その名の由来は「音の鳴り響く泉」と言われているそうで、氷河の後退によって形成されたU字谷の底にある。実際、村の周辺には70以上もの滝があり、村から見上げると、頭上に滝があるなんていうダイナミックな風景が見られる。
中でも名爆とされているのが、シュタウプバッハの滝。垂直に切り立った岩山の上から約300mの高さをまっすぐに流れ落ちる姿は圧巻のひとことだった。
ラウターブルンネン村から登山鉄道に乗って、さらに山を登っていく。目指すのは、標高3,454mのユングフラウヨッホ駅。ヨーロッパ最高地点の鉄道駅で、乗り物を使って、ユングフラウに最も近づける展望台だ。
新しくロープウェイができたアイガーグレッチャー駅に着くと、山が一気に迫ってきた。ここからは、アイガー、メンヒの山中に造られたトンネルを走ってユングフラウヨッホまで登っていく。
が、このアイガーグレッチャー駅周辺にはハイキングコースが作られていて、360度、どこを見てもアルプスの山々という大展望がひらけている。しかもそこは高山植物の宝庫。これは歩かない手はないということで、少し寄り道することにした。
歩き始めてすぐ、アイガーとメンヒの間を流れるアイガー氷河が眼前にあった。とんでもない迫力に興奮しつつも、ところどころ氷河が崩壊している箇所がある。これもまた世界規模で起こっている気候変動の影響だろう。これらの氷河が融解してしまったら、一体どんなことになってしまうのか。今実際に起こっている危機的な状況をこの目で見て、肌で感じられたことは、僕にとってとても大きなことだった。
この美しい景観を次の世代に残したいという思いと同じくらい、ここで知った現実を多くの人に伝えたい、伝えなくちゃいけないと強く思った。
さらに歩を進めていくと、エメラルドグリーンの水をたたえたファルボーデン湖が見えてきた。アイガーの雄々しい氷河と、のんびりした牧草地、色とりどりの高山植物、そして宝石のような湖。全く異なる表情の風景を見ながら歩ける、最高のルートだ。
気づけば予定より大幅に時間がオーバーしていて、このままではユングフラウヨッホまで行けなくなってしまう……!大急ぎで駅まで戻って、登山鉄道に飛び乗った。
そこは万年雪の王国だった。西にはユングフラウ、東にはメンヒ、南には広大なアレッチ氷河が広がっている。ユングフラウヨッホ駅近くにある標高3,571mの「スフィンクス展望台」に立つと、そんな信じられない風景が飛び込んできた。標高4,000mを超えるメンヒやユングフラウの頂上が、すぐそこに見えるのだ。
アレッチ氷河はアルプス最大かつ最長の氷河で、それを含む広大なエリアは「スイス・アルプス ユングフラウ=アレッチ」としてユネスコ世界自然遺産に登録されている。
僕は長らく登山を趣味にして、あちこちの山に登ってきたけれど、スイスアルプスは大きな憧れを抱き続けてきた場所だった。鉄道の最終便の関係で、ユングフラウヨッホには15分ほどしか滞在できなかったが、それでも感激するには十分だった。
かなり駆け足だったスイスアルプスの山旅。こんな欲張りなプランを実現できたのは、網の目のようにスイス全土を結ぶ鉄道や山岳交通のおかげだ。環境先進国であるスイスでは、アルプス地方を中心にガソリン車の乗り入れが禁止されている村もある。公共交通機関が発達した国だけれど、とくに鉄道と山岳交通のほとんどが水力発電や太陽発電によるクリーンエネルギーで運行していると聞いて、驚いた。
世界中から観光客が訪れる場所だからこそ、できる限りサステイナブルなやり方を選択する。その考え方は、日本でも見習っていくべきだと強く思う。
日没ギリギリまで歩き通し、宿泊するクライネ・シャイデックに戻った時にはヘロヘロだった。
それでも翌朝、どうしてもアルプスの朝日が見たくて、日が昇る前にベッドから出て、暗いうちからその時を待った。
青から朱色へ、空が繊細なグラデーションをつくるとともに山々はそのシルエットを濃くしていく。一瞬たりとも同じ風景がない、切ないほどに美しいその風景を、僕はこの先ずっと、忘れることはないだろう。