「考え抜いて体の底から出てくるアイデアの大切さを教わった」
日本の成長著しい1950~70年代に、都市デザインや建築の分野で盛んだったメタボリズム運動の中心をなす一人としても活躍し、20世紀後半にかけて数々の名建築をつくり上げた建築家・菊竹清訓。
伊東はその事務所に、65年から69年にかけて在籍している。伊東の事務所に在籍した/する多くのスタッフたちが伊東に憧れて事務所の門を叩いたのと同じく、菊竹への憧れがあってのことだったと振り返る。
「僕が学生のときに行われた〈国立京都国際会館〉のコンペティションで、菊竹さんは最終案に残っていたりと、気を吐いていました。今でも僕が最も好きな建築である〈東光園〉が完成するのもこの頃。大きな衝撃を受け、この人のもとに行きたいと、事務所に加えていただきました」
当時の菊竹は30代の後半。「か かた かたち」の言葉に集約されるデザイン理論が注目されるなど、理論派としての一面に憧れた面もあったというが、「全くもって僕の認識が甘かった。頭じゃない、体で考える人でした」と伊東は話す。
「頭の中だけで考えたことは、菊竹さんには絶対に通用しない。言葉で表すのは難しいのですが、考えて考えて、体の底から出てくるイメージが、菊竹さんの体から出てくる直感に反応すると、その案が採用されるんです。学生のときの僕は、建築とは論理だと思っていたところがあるのですが、そんなのは何の足しにもならなかったと痛感しました」
菊竹事務所に加わった伊東がまず担当したのは、多摩田園都市の開発計画。住宅街が広がる現在の様子からは想像もつかないような、茫漠とした土地の未来図を描いていく都市計画に携わった。当時の事務所はどのような雰囲気だったのだろうか。
「僕が入った当初の所員は15人ほど。そこから僕がいる間に40人くらいまで膨れ上がったと記憶しています。大先輩のチーフ格に内井昭蔵さんがいらして、僕のすぐ上に仙田満さん、長谷川逸子さんらが在籍していました。当時の菊竹さんは本当に怖かったですよ。コンピューターなどもちろんなく、手で図面を描く時代。
僕らは日々夜なべして作業しているわけですが、昼間はたいてい外部で打ち合わせなどをしている菊竹さんが、夕方に帰ってくると、夜にかけてそれをチェックしていく。それが、興味を持てない案だとすっと素通りするんです。明らかに意図的に無視する(笑)。
それが1週間も続くと、こちらは心身ともにまいってしまいますよ。でも、僕も一度だけ見たことがありますが、もっと若い頃には、描き上げた図面を破り捨てることもしばしばあったそうです。僕らといるときには一切笑わないのに、外から電話が来ると、途端に満面の笑みを浮かべ、優しい声になる。それが皆不思議でしようがなかった(笑)」
厳格な師匠のもとでの日々で、伊東も10kg以上体重が落ちたというから、そのハードさが窺える。しかしその分だけ努力を重ねたし、学んだことも計り知れないという。
ミーティングで発揮する並々ならぬ集中力
「菊竹さんのミーティングでの集中力は本当に圧巻でした。端で見ていてもわかるほどにぐっと力が入り、そこに集中して自分のアイデアを出していく。僕にとってはその姿がとても印象的で、今も自分でもそういう時間を大切にしています」
伊東は、多摩田園都市の開発計画に携わった後、菊竹のほか、磯崎新や黒川紀章などが丹下健三のもとに集って大阪万博の準備を行うプロジェクトの担当となる。
その後万博の開場を待たずして菊竹事務所を辞することとなるのだが、「それぞれの建築家の事務所から担当者が出されて、丹下事務所に集い、会議でボスたちが自由に話すことを図面にしていく。メタボリストの方々と初めて近くで話をしたり、他の事務所の人たちとの交流が生まれたりと、とても刺激的な日々でした」と話す。
そうして現在の伊東豊雄建築設計事務所の前身である〈アーバンロボット〉を設立するのが1971年。以来45年にわたって事務所を率いてきたことになるが、設計のプロセスや建築家としての在り方など、菊竹に影響を受けている面がいくつもあるという。
「ミーティングのときに集中しろ、というのは自分はもちろんスタッフにも言い聞かせること。“この時間に何か言え、明日までに考えますなんて言っても何も出てこないぞ”と。僕が一方的に話すだけではダメで、お互いにレスポンスをし合っていかないと意味がないんです。それから、各人のアイデアが体から出てきているか、というのもよく問いかけますね。“お前は本当に体の底からこの案が好きか?”と。
本当にこれだと信じられる案であれば、1週間経っても思いは変わらない。でもそうではない、頭の中だけで考えた案は、1晩寝たら自信が揺らぐんです。そういう案では意味がない。僕自身、アイデアスケッチが出る前は、誰にも見せないスケッチブックにもやもやと絵のようなものや言葉にならない言葉を殴り書きします。そのスケッチブックはもう何十冊にもなる」
伊東がミーティングを大切にし、広くスタッフのアイデアを聞きながらプロジェクトを進めていくのは、本号でも石田敏明、妹島和世、柳澤潤、平田晃久という4人の建築家が述べた通り。だからこそ、一人一人のスタッフの“体から出てくるアイデア”が大切なのだと話す。
「菊竹さんとは少し違い、僕自身が“受容型”の人間なんです。自分のアイデアだけで凸型に攻めていくのではなく、ほかの人から出てくるものを受け止め、消化し、それを何かに変えていくタイプ。
だから僕の中ではスタッフとのミーティングは命綱ともいえます。それに関連して、菊竹さんと違うところをあえて挙げるとすれば、僕の方がより広く問いかけをして、そこに出てくる意見を集約していくところでしょうね。良く言えば柔軟、悪く言えばいい加減ということですけれど(笑)」
菊竹から引き継がれた遺伝子は、そのもとに身を置いた伊東ら建築家のなかでそれぞれの形となり、さらに次の世代、そのまた次の世代へと渡り続けているのだ。出来上がるものはまるで違っても、建築に真正面からぶつかっていくその方法は、菊竹という幹から伸びる枝である彼ら皆に共通するように見える。
菊竹清訓のもとで一流が育つ理由
・徹底的に考え抜く訓練
・アイデアが芳醇になる打ち合わせ
・師の厳しさに応えようとする