感情の影もそのままに「ことば」を選ぶ
「普段から、感情や光景をメモしています。短歌を書くぞってなったら、そのあとに続くことばを考えていく。最初のメモはとっかかりにすぎなくて、原型を残さず短歌ができることも多いです。強く感情が動いた瞬間はもちろんだけど、テレビで柔道部がごはんを食べてるシーンを見たり、身近な人の表情や仕草だったり、さりげないものがモチーフになるときもあれば、本を読んでいて、『この人こうなんだ、わたしだったらこう』っていうのがそのまま短歌になることもあります」
今回の展示は、「言葉」と「絵」それぞれを扱う作家同士がペアを組んだ。歌人の伊藤紺さんはデザイナーの脇田あすかさんとのリレー方式で作品を発表している。伊藤紺さんの短歌を受け取った脇田あすかさんがグラフィックを制作し、それを見た伊藤さんがまた短歌を制作する。独立した短歌とグラフィックが交互に並ぶ作品群に対峙するとき、不思議と、言葉も絵を見るときのように読みたくなる。その言葉が本来もつ豊かな“イメージ”を享受できるような鑑賞体験をわたしたちに与えてくれる。
「あすちゃん(脇田あすか)とのやりとりを始めて、絵をもらった瞬間に自分の中で書きたいものがはっきり出てきて。彼女の絵を見て、影響を受けて、連句にちょっと近いのかもしれません。作品同士を密着させるわけでもなくお互いに新しいものを生んでいきました。
例えば、とうもろこしと枝豆をモチーフにしたデザインを渡されたときは「すこやかさ」「均等」、というイメージが浮かんできて、その明るさから短歌を作りました。受け取った瞬間のイメージを彫刻みたいに削りながら作っていく感覚はいつもと全然違って、より明確にゴールへ向かいながら作れた気がします」
企業やブランドのために短歌を書くこともある伊藤さんだが、個人の作品として作る短歌にはマイナスの感情が表れることもあるという。100%の明るさだけはなく感情の翳りもあるがまま大切にする姿勢は、選び取る言葉の一つひとつに宿っている。
「求められるのは、やっぱりキラキラした明るい世界観のものだったりするんです。でも自分たちの生活ってそれだけではないから。生きていると人の死に触れることもあると思うんだけど、そんなときには心の裏が剥き出しになるように寂しいと感じることがある。
今回の展示をつくるときに、一番最初にあすちゃんと「明るすぎなくてもいいかもね」って話をしていて。暗い作品を作るってことじゃなくて、マイナスの気持ちとか悲しみのような自分の感情をなかったことにしない、そういう作品を作りたいねって話をしながら進めていきました。あすちゃんとの共同制作という気持ちの良い制限がある中で言葉を選び取っていけました。
もともとわたしはこの地球上に真実みたいなものがたくさんある中で、一番日常的なものを書きたいんです。自分の根底には常に影があって、そこに差し込む胸がぐらっとするようななるべく強い光を意識しています」
言葉を“意味”だけで捉えない。絵画のようにイメージを感じる
「短歌」を額装し、ビジュアルとともに展示するという経験を経て、「本」と「展示空間」での、短歌を読む行為の違いも見えてきたという。
「言葉って“意味”だけで捉えられることがどうしても多いんです。詩歌を普段から読む人であれば、言葉が意味だけではないことは理解していると思うんですけど。その点、絵は理解できなくても味わう、という鑑賞態度がある程度浸透している。
言葉を絵と同じように鑑賞できる状態にすることで、いつもと違う読み方ができると思うんですよね。本を読むときのスピードよりゆっくりになっていくというか。展示で絵を2秒で見て飛ばす人はあんまりいないけど、言葉は読み飛ばされてしまうことが多い。展示というかたちをとることで、意味だけでなく本来言葉がもつイメージの魅力を汲み取りやすくなっていると実感しています。短歌を語尾まで味わって読んで、感じてほしいです。
わからなくても浴びる努力をする場が展示空間。美術館やギャラリーってそのとき理解できなくても、どうにか空間を回ってみたり、いろんな角度から時間をかけてみたり。全然わかんないなと思いながら立ち止まってみることができる環境になっている。そこに言葉が置かれた時、本で読むよりじっと感じてくれると思うんです」
私たちが毎日見聞きし、触れる「言葉」。三十一文字の表現にじっくり向き合うという体験を通して、言葉が本来持つ豊かなイメージを味わって欲しい。