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インドネシアのシティポップ、「ポップ・クレアティフ」とは?

山下達郎、竹内まりや、吉田美奈子、大貫妙子、南佳孝……。欧米のポップスを志向した7080年代の日本のポップスが、近年シティポップと呼ばれ世界中でブームとなっている。しかし、同じく洗練されたポップスの歴史が、東南アジア・インドネシアにもあることをご存じだろうか。知られざるインドネシアのシティポップ、「ポップ・クレアティフ」について、インドネシア研究者が解説する。

Text: Yujin Kim

70年代末、都会的で洗練されたポップスが人気に

日本のシティポップのようなサウンドの音楽は、インドネシアでは「ポップ・クレアティフ(Pop Kreatif)」と呼ばれる。

『Tanamur City - Indonesian AOR, City Pop, and Boogie - 1979 to 1991』(2021)。70〜90年代のインドネシアのポップスを集めたコンピレーション。

ポップ・クレアティフは1970年代末以降、ジャカルタを中心に人気となった都会的で洗練された洋楽志向のポップスである。当時主流だった歌謡曲風のバラードとの違いを際立たせるために適当にメディアがこの呼称を使いはじめた。

このシーンを担っていたのは都心に住む金持ちのボンボンだった。その代表格は初代大統領スカルノの息子グル・スカルノ・プトラ(Guruh Soekarno Putra)。ポップ・クレアティフの始祖と言ってもいいだろう。彼周辺の洋楽かぶれインテリ・エリート集団が70年代後半以降、ポップ・クレアティフ人気を牽引していく。

Guruh Gipsy『Guruh Gipsy』
Guruh Gipsy『Guruh Gipsy』(1977)

70年代といえばスハルト開発独裁政権(1966~98年)の時期。「独裁」というと何でもかんでも不自由そうに思えるが、じつはそうでもない。とくに洋楽好きの若者からすれば、西側欧米寄りのスハルト体制は西洋文化の流入に開放的だったため、欧風ポップスを聴いたり演奏したりするぶんには結構自由だったのだ。

経済成長と民主化を経て、再評価へ

とはいえ、当時ポップ・クレアティフは日本でいうところのニューミュージックみたいに商業的に売れたわけではなく、人気も長続きしなかった。

「天才」と呼ばれたシンガーソングライター、ファリスRM(Fariz RM)やチャンドラ・ダルスマン(Candra Darusman)は、グルたちの弟分にあたり、80年代ポップの旗手として活躍したが、歌謡曲や同国独自の大衆音楽ダンドゥットの人気を凌ぐほどではなかった。そもそもポップ・クレアティフを消費できるほど社会が豊かではなかった。

だが、80年代後半の経済成長と98年の民主化を経た2000年代以降、インディシーンのなかからポップ・クレアティフを現代的に再解釈するバンドが現れる。ホワイト・シューズ&ザ・カップルズ・カンパニーやソレ(SORE)といったインディポップ系は、グルやファリスなど伝説的ミュージシャンたちへの敬意を表明し、70~80年代ポップスの影響を受けた楽曲をリリースしていった。

歴史的蓄積のうえで加速していくブーム

2010年代に入ると、ポップ・クレアティフの再評価がネットの普及やアナログレコード・ブームと相まって急浮上していく。ディスコリア(Diskoria) など近年のポップ・ミュージシャンたちは、過去の自国音楽の素晴らしさを今の若者たちに広めるべく、70~80年代ポップを現代ディスコ風にアレンジしていった。

ディスコリア『Balada Insan Muda』
ディスコリア『Balada Insan Muda』(2019)

すると、若いリスナーは、洋楽やK-POPのみならず、今まで知らなかったインドネシアの古いポップスをノスタルジックに消費したり、それに影響を受けた現行のローカル・ポップスを好んで聴くようになった。

こうした歴史的蓄積のうえで、いま、世界的シティポップ・ブームとたまたま軌を一にするかのようにインドネシアでシティポップっぽいものが流行っている。
日本のシティポップをカバーするインドネシアのシンガーを聴くのもいいが、これを機にもっとリアルなインドネシア「シティポップ」の世界にも触れてみてはいかがだろうか。

筆者が選曲したプレイリスト。記事に登場する楽曲のほか、ポップ・クレアティフの世界を楽しめるさまざまな楽曲を選んだ。