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ヒコロヒー「直感的社会論」:清潔に生きていかんとする私

お笑い芸人、ヒコロヒーの連載エッセイ第45回。「今月のヒコロヒー」も要チェック!

前回の「私の野原は、一体誰のためのものなのか」も読む。

text: Hiccorohee / illustration: Rina Yoshioka

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清潔に生きていかんとする私

「ヒコロヒー、どこどこのあいつと仲良いの?」から始まる言葉の下の句は大抵が「あいつがヒコと飲んだって言ってたよ」や「あいつがヒコちゃんと仲良いって言ってたよ」などというものである。そして大抵の場合、私はその「あいつ」のことなんて露ほども知らない。知っていたとしてもさして仲良くなどない。仲の良い人間ならば、私のいない場で私のことを知らぬ人に私との関係を勝手に言われることなど、私がとことん嫌悪する行為だと知っているからだ。

たしかに同じ空間で飲んだのかもしれないが、同じ空間で飲んだ、ということのみであろう。しかし私の知らないところで妙な物語は至る所で大なり小なりいくつも湧き出しているようで、どうやら私は私の知らないところで私と「仲の良い」人たちが増えているのだという。

最も衝撃的だったのは、後輩と二人で食事をしていた際に話しかけてきた男性にしつこく連絡先を聞かれ、もう穏便に済まそうかと連絡先を交換した時のことである。後日、後輩がその男性に会うと「ヒコロヒーに連絡先聞かれてさあ」とうそぶいていたのだという。信じられなさすぎて鼻血が出るかと思った。実際に後輩は鼻血を出しながらそれを報告してきた。

ちなみにその彼は各所で私のことを好き勝手に話しているのだろう、あらゆるところから色んなことを聞いているが、もうこの人生で二度と会うことも関わることもない人であるため問題はない。

彼が妙な虚栄心でひとりよがりにタレントの名前を使用してうそぶいてその場のつまらぬ注目を集め、もしくはそういうくだらないやり方で自分を大きく見せようとするだけのひどく虚しい愚行を繰り返している間に、私は黙々と、粛々と、自分のやるべきことを全うし、人に親切にし、誠意を持って働き、誠実に学び、確かな実力をつけ、感謝を忘れず、一本筋の通ったイケてる人たちと交流を深め、こつこつと、確実に、さらなる本物になっていく。

そのようにして清潔に生きていかんとする私にとっては、二度と交わることのない、影を踏ませることさえ許さない人間であるということを、彼はそこかしこでそういった愚行を以てして証明し続けてくれていることに感謝さえしている。そしてそういう人たちは私の知らないところに、多くいるのだという。

とはいえ見境なしに交流を持ってきていた自分にも非がある。内訳は幾つかあるが大きな原因は自分の立場に無頓着であったことかもしれない。不埒な噂や悪手の評判が立たぬよう、関わる人間を見極め、腹を締め直すべきであろう。

しかし自分の立場を気にしすぎて他者との交流に臆病ないし選り好みしすぎるような人々も少なからず見てきて「お前がなんぼのもんやねん」と思ってきた自分もいる。立場を重んじるよりも、人間と人間なのだから本来ならば対等であるという考えも美しい。たとえば飲み屋で飲んでいたならばそれはもう仲間だとさえ思える。

自分が何者であるかは抜いて、否、誰もが何者でもないという状態になる場となり、そんな仲間を邪険にはしたくないではないか。なにも私は素晴らしい人に出会いたいわけではなく、ダサいことをする人と出会いたくないだけなのである。それがこんなにも難しいのだというらしい。

交流や親睦に対する線引きは難しいが、私の拙い人生経験で弾き出した警戒すべき要素、確実だと言えるものは今のところ3つ、「聞いてもいない交友関係をべらべら喋ってくる」「知らない他人のプライバシーを勝手にべらべら喋ってくる」「おもんないのにべらべら喋ってくる」。

この3種のべらべら喋ってくるシリーズのうちのどれかが、あるいは全てに、当てはまる人物像には注意せねばと、この原稿を書いているうちに急に混んできた喫茶店で、突然に店主から混んできたから相席でもいいかと尋ねられ、今、目の前に、そ知らぬ人が唐突に座っている状態で、せっかくやし、こんなこと滅多にないし、おもろなりそうやし、こいつに話しかけてみよかな、などという思いがきゃっきゃと逡巡しているのだから、世話がないのは私のほうかもしれない。

今月のヒコロヒー

滑り台の上に座るヒコロヒー
photo/Takao Iwasawa

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