春が来た、否
春に来た

春である。
春はとてもよい。
なぜなら何もせずともそこいらから花が咲き、緑が湧き、適温の風がまとわりついてくるからで、理由はただそれだけである。
新年度、とか、新しい環境、とか、そういうことは社会が勝手につくったものであるからしてどうだってよく、そんなものに自分の「心機一転」などを委ねることはおおよそせずともよいことで、ただ、ひたすらに窓を開けると風が吹き、花がちらつき、緑が揺れる、そのことのみにただひとつふたつの幸福に感じられる日々である。
「春が来た」という表現がある。ユーミン先輩や松たか子先輩にはいくばくか申し訳ないが、個人的には春が来たわけではないと考える。私たちが、春に来たのだ。
物理的には春はほっといてもやってくるのだが、そんな税金納付書みたいな扱いにしたくないのである。私が、私たちが、つらい日もそうでない日も、苦しくて眠れなかった日もそうでない日も、ごまかしながらでも茶を濁しながらでもひとつひとつの日々を歩んできたからこそ、春にまた来れたのである。私たちが生きてきたおかげで、私たちは春に来たのだ。
明日、春が来たら君に会いにいくのではない。明日、私が春に行くから、ほなお前も来て、会う段取りにしようや、である。やがてやがて迎えにくる春よ、遠き春なのではない。私が春を迎えにいく段取りにするから、ちょっと時間までに準備しといて、なのである。
私たちはまた春に来ることができた。それだけで大変に誇らしくありがたいではないか。しかしやや春の好感度が高すぎる点においては不安だ。このままでは春が不祥事を起こしたさいのダメージははかりしれない。何があってもいいように、春の好感度を少し下げつつ、えっ、春ってそんな一面あったんがっかりやわあとならないように、この春というものに辿り着いた喜びを冷静にめいっぱいに浴びていきたいところである。
今月のヒコロヒー
