休暇、ニューヨークに来た。一年ぶりに訪れた街は、豪雪に皮膚を痛めた昨年とは異なり思いがけずあたたかな気候だったために、昨年の反省を活かしてコートのポケットにしのばせたホッカイロは急に邪魔くさくなってそこらへんにあるゴミ箱に捨てた。ふと、人間関係もこのくらいさっぱり捨てられたら良いとほんのり思った。
ニューヨークに訪れたのは高頻度で三度目だったためあまりしたいこともなく、とにかく休暇ということでのんびり気ままに過ごすことにしていた。予定を詰め込むのではなく眠りたい時はホテルの部屋で眠り、買い物に行きたくなれば街へ繰り出す。お酒が飲みたくなれば軽めのドレスを着てスピークイージーへ行き、美術館へ行きたくなればてきとうに行った。これがひどく良い日々となったのだった。
私は一人旅が好きで、友人や恋人と行く旅も好きだが、一人には一人の良さがある。自分自身しかそこにいないため、自分自身としか対話ができない。その時間は本来であれば憂鬱なものだろうが、今回のニューヨークではひどく素晴らしいものとなった。
私は悪者にされることを厭わない。悪評を流されることも気にしない。なぜなら真実は一つだからだ。しかし厄介なのは真実から生まれる解釈は幾通りもある。その解釈が拡大されていくことにやや心が痛む瞬間もあった。しかしもうよかろう。私自身が凛としていれば問題のないことである。言い訳も弁明もする価値も意味もない。何を信じるかもその人のセンスであり選択だ。人は信じたいものを信じる。私の手中にはないことを気に病んでも仕方なかろう。
ある朝、ホテルの近所のカフェで朝食を食べていると横の黒人女性が自身が食事中のパンケーキをつまみ「食べる?」と英語で尋ねてきた。いるわけないやろと思いながらノーサンキューと言ったところから、思わず会話が弾んでいった。
割愛するが、最終的に彼女が大笑いしながら言ったのは「窓の外を見てご覧、こんなにも人間がいるのよ、私たちは最高の人たちと出会うことができるの。なぜならここはニューヨークよ」という言葉だった。ニューヨークという街が持つ力強さを信じて生きている人の発言だった。
私たちは最高の人たちと出会うことができる、なぜならここは東京だから、と、私は言えるのかななどと少し考えたが、私みたいなものがそんなこと言ってもカリスマ性のひとつもありゃしないと思い考えることをやめた。
ニューヨークという街で出会った他の女性たちもみんな明るかった。男性のことはよくわからないが、みんなこの街を心から楽しんでいた。当然、無理やりな瞬間もあるのかもしれないが、振り返る暇などないというほどに前向きで動き回っていた。それこそがこの街を巡らせるエナジーなのかもしれない。
強さとは、たくましさとは、どんな状況に陥っても歯を食いしばり前や上だけを見て進んでいくことで、それは言葉にすればとても簡単で実際にはとても難しいことかもしれない。
さあ、新年である。新たなスタートを切って新たな景色をより良いものにするために、素晴らしい毎日を送ろうではないか。あけましておめでとう。