“ゲームならでは”の没入感が、新しい物語を作る
文:さやわか
10年前、世界中のゲーム開発者の間で「ナラティブ」という言葉が流行した。一言でいえば「なぜか自分だけの物語を体験したように感じてしまう仕組み」を指す言葉だ。
たとえば『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』や『ELDEN RING』のプレイ中には、何となく山を登ってみたくなる。けれど途中で飽きてふと周囲を見ると、たまたま洞窟を発見したりする。そこに入ってみたら、閉じ込められた人に助けを求められたりもする。
プレイヤーは、それらを自分の意志で行ったと感じる。山を登れと命じられた訳ではないし、洞窟の場所が標識で示されもしない。「偶然」それを行い、「たまたま」人に遭遇したふうに思える。だが実はプレイヤーは、そう感じるように導かれている。はっきりと指示せず、でも丁寧に作り込んで、プレイヤー自身がその筋書きを生み出したと強く思える仕組み。それがナラティブだ。
つまりナラティブは物語作りの「工夫」をシンプルに指す言葉で、ナラティブを感じる作品は昔から存在する。それでもこの言葉がゲーム好きの間で流行したのは、映像や音声が高度になったからこそ、物語自体の没入感も意識しようと捉えられるようになったからだろう。
以前からゲームの物語は高度化していた。広大な世界を作り込んだオープンワールド形式の作品や、シナリオが無限と思えるほど分岐する、膨大な文章量を持つゲームが無数に生み出されていった。ナラティブの流行は、そういったゲームを洗練していくものだった。
たとえば『The Last of Us』シリーズや『The Witcher3』なども、Netflix系のグイグイ引き込まれるテレビドラマを思わせつつ、プレイヤーの没入感を深める工夫を数多くちりばめている。名作『Skyrim』のスタッフによる最新作『Starfield』も従来のオープンワールドの流れにありながら、尋常でないほどの作り込みを行い、プレイヤーに「自分だけの物語」をもたらす。
あるいは日本のノベルゲーム『レイジングループ』なども同様かもしれない。シナリオがすさまじく長大なので、自分の選択でどこまでも話が続いていくように楽しめるのだ。
『Life is Strange』『Detroit:Become Human』などのSF作品は、主人公の人生観や社会問題、哲学的なテーマなどにプレイヤー自身が向き合える思考的なナラティブの作り込みがあり、幅広い層に届くヒットにもなった。つまりナラティブの重視は、従来の、ゲームの物語を自分と無関係な、空々しいものに感じる人々を振り向かせてもいる。
ナラティブなんて一過性の流行語だと話す人もいた。だが、実際はこの10年でその考え方が浸透し、それに伴ってゲームの物語がどんどん奥深くなっていったのだと言える。自分だけの物語を生き、自分だけの思い出を作れる。そんな物語を楽しめるゲームが、今は山ほどある。