語ってもらった人:松本壮史(映像監督)
演出に“すこし・ふしぎ”を感じる、『ドラえもん』ワールド
『ドラえもん』は物心ついたときから当たり前にそばにあって、DNAに刻み込まれていると言ってもいい作品。そもそも映画観賞という非日常の体験に出会えたのも、小学生の頃初めて電車に乗って友達だけで観に行った『のび太の南海大冒険』がきっかけ。タイムトラベルをしたのび太たちがカリブ海の海賊や謎の海洋生物と戦うなんて、ロマンしかない!と、大興奮のまま帰ったことを覚えています。
SF的な教養も、藤子・F・不二雄先生の作品で身につけました。初めてタイムパラドックスの原理を知ったのも「ドラえもんだらけ」。のび太の宿題をやることになったドラえもんは、数時間後の自分を呼び出す。終わったと思ったら2時間前の自分がやってくる。ん?どういうこと?と時間の流れをノートに書き出して、必死に理解しようとした記憶があります(笑)。
その後、美大に進学して作り手の意識でコミックスを読むとまた違った感動が。『ドラえもん』は日常の半径数メートルの中にSFがあるのが面白いんですよね。
特にのび太の部屋の中で物語が完結する「地平線テープ」はその最たるもので、自分の部屋というありふれた場所からテープを貼るだけで一気に異空間へと飛躍して、紆余曲折を経て部屋へと戻ってくる。登場人物と舞台が限られる、いわゆるワンシチュエーションドラマの構図ですよね。何もない空間が広がるコマはめちゃくちゃ衝撃的で、恐ろしくもありました。
有名な回ですが、「帰ってきたドラえもん」の演出も外せません。最後、しゃべったことが嘘になる「ウソ800」の効果で、帰ってきたドラえもんとのび太が泣きながら抱き合うあのシーン。真っすぐ「一緒にいたい」と言いたいのに、SF的な仕掛けによって本当のことが言えない。直接的でない歪んだコミュニケーションなのに、むしろ真意が深く伝わってくる。この歪みに僕はグッときます。
この要素は、自分が監督したSF短編「親子とりかえばや」(NHK BS)にも見られます。中身が入れ替わった親子が、周囲の人々の話によってお互いを知っていく。当人同士の交流はなく、間接的に知ることで関係性が変化するのですが、そこにロマンを感じました。
自作で言うと映画『サマーフィルムにのって』の主人公・ハダシの言う「好きって言わずに好きって伝えるのが映画じゃん」という台詞(せりふ)や、告白を決闘で表現する展開にも、その影響が表れています。
もはや体に染みついてしまっていて自分では認識しづらいのですが、僕はF先生から物語に必要な基本的な要素を教えてもらったんだと思います。例えば映画のキャラクターの設定を考えるときも、のび太の「弱虫だけど射撃が得意」のような弱点と特技の“愛すべきチグハグ”を作りたくなるし、それが人間らしさにつながると思っていて。因果応報もその一つ。
「どくさいスイッチ」は「みんないなくなってしまえ!」と、嫌な人たちを消してしまったのび太が、最終的には「一人でなんて生きていけない」と思い直す話ですが、欲望のままに行動すると、その報いを必ず受けることになる、という点は脚本作りにおいても意識しています。
壮大なSFもいいけれど、僕は日常から始まってSF的に飛躍したあと、また日常に戻る“すこし・ふしぎ”な物語が、やっぱりたまらなく好きなんだと思います。