監修:阪本義治(Act coffee planning 代表)
それは2004年のこと。ある農園が、コーヒーの世界を変えた。パナマのエスメラルダ農園で採れた豆が同国の品評会に出品され、1位に輝く。レモンやジャスミンを思わせる華やかなフレーバーは、明らかに別物だった。以降、ゲイシャはパナマのほとんどの農園に広まり、バリスタの世界大会も席捲し、競技者の多くが使う事態に。
オークションの落札価格は年々記録を更新。23年の「ベスト・オブ・パナマ」1位、カルメン農園の豆は1kgあたり1万ドル(=約150万円)を超えて世界記録となった。ブームを受けて中南米全域、果てはアフリカにも植樹され、高い値段で取引されている。
ここには2つの意味がある。一つは、ゲイシャという一品種がパナマという一産地に適応したこと。もう一つは、そもそも「品種で味が変わる」という事実にプロ・アマを問わず多くの人が気づいたことだ。
ゲイシャはエチオピア西南部のゲイシャ(ゲシャ)というエリアの野生種が、1960年代以降にパナマに持ち込まれたもの。収量は少なく目立たない存在だった。しかしこのパナマで注意深く選別したら、世界のどこにもない香味が生まれたわけだ。
注意したいのは、ゲイシャならなんでもおいしい、ではないこと。品種はあくまでファクターの一つであり、土壌、地形、気候などの諸条件(いわゆるテロワール)によって味わいは大きく変わる。パナマ以外で栽培されるゲイシャは増えたが、パナマの香りは出ないのが現実だ。
ただし、品種がいかに重要か、という点で生産者、消費者、その中間業者の目を開かせたという意味は大きい。コーヒーでは長らくブラジル、コロンビアのような国名や、せいぜい農園の名前が辿れる程度で、品種はさほど重要ではなかった。それをゲイシャは変えた。
典型的な優品は豆を嗅いだ時点でそれとわかる独特の香気を放ち、しかも世界中の飲み手たちの心を捉えた。最初に評価したのは欧米だが、いまや取り合いとなり、オークションの落札者上位にはアジア圏の業者が目立つ。
たまたま、パナマはゲイシャで成功した。「ならば、まだ見つかっていない未知の品種や組み合わせがあるのではないか?」「いまよりもっとこの土地に合う品種はないか?」という視点が新たに加わり、見過ごされていた品種の再発見、より多彩な品種への挑戦が始まっている。
レユニオン島で発見されたラウリーナ(ブルボン・ポワントゥ)、イエメンで選別されたイエメニア、インドネシア経由で中南米にも持ち込まれたジャバなどの品種や、アラビカ種の祖先ともいわれるユーゲニオイデス種など、種や品種への探求は始まったばかり。ほんの20年前まで、パナマとゲイシャが生み出す驚異の香味は誰にも知られることはなかった。今後どんな味が発見されるのか。それは新たな天体の発見にも等しい。
これに加えて、精製が注目を集めている。果実を収穫したら種子(生豆:なままめ)を取り出す。これをプロセス(精製)と呼ぶ。近年に登場したのはこの過程で意図的に発酵を行う「ファーメンテーション」と呼ばれる方法だ。
2015年にWBCチャンピオンとなったササ・セスティックらが提案したのはカーボニックマセレーションというプロセスで、果実をタンクに詰めて炭酸ガスとともに発酵させる。より広義にはアナエロビック(アナロビックとも)ファーメンテーションと呼ばれ、密閉状態での嫌気性発酵を指す。
この過程でパイナップルや桃、マンゴーのような果実香が発生。そのインパクトは強く、10年足らずで世界中の農園が採り入れるようになった。
世界最大の生産国ブラジルでも、国際品評会「カップ・オブ・エクセレンス」では2023年からDRY(乾式)、WET(水洗式)に加えて遂にEXPERIMENTAL、つまり「実験的」プロセスの3部門に増えたのは、この変化を象徴する出来事だろう。
またこれとは別に「インフュージョン」という手法も登場している。これはコーヒー以外の果実やそのジュース、スパイスなどを添加・浸漬して発酵させるもの(精製後の生豆を浸漬する例も)。さらにその農園由来ではない培養酵母や乳酸菌、香料などを加える例もある。
こうしたさまざまな工程を組み合わせて、無数の“オリジナル”プロセスが試されている。一方でこれらは守旧派の間で「その豆のテロワールの香りと言えるのか?」と疑問視する声もある。新しいプロセスは産地の規定や定まった呼称もないため、現状は言ったもの、やったもの勝ちでもある。発酵と腐敗は紙一重、一部では食品の安全性や経済的リスクの可能性も指摘される。
一方で、標高が足りなかったり、テロワールに恵まれない産地や生産者でも、収穫後に付加価値を乗せて売れる可能性が広まった、とも言える。いずれにせよ、ロースターや飲み手にとっては「透明性」、つまり何をどう使ってどのように精製したか明示できるか?は、今後の豆選びでカギの一つとなりそうだ。