今秋、幼少期における性自認の問題を扱った2本のフランス映画が公開される。どちらも本人が性的マイノリティということもあって、ジェンダーをテーマにした映画を数多く作ってきた監督たちの作品だ。
2つの世界を行き来する主人公のひと夏。
一つは、昨年末『燃ゆる女の肖像』が話題になったセリーヌ・シアマの旧作『トムボーイ』。タイトル通り、主人公のロールはボーイッシュな10歳の女の子。ところが、夏休みに引っ越した新しい土地で男の子と間違われたことから、ミカエルという名の少年として通そうとする。
もちろん、ロールも、学校が始まればその嘘がバレることくらいわかっているはずだが、そのほんの束の間の時間、ミカエルとして男の子たちの間で溌溂と振る舞う、いつもは引っ込み思案のロールの姿が、夏の太陽のもと、キラキラと燦めき切なくも美しい。シアマはこの長編2作目で、ベルリン映画祭で優れたLGBTQ映画に贈られるテディ賞の審査員特別賞を受賞した。
”自分らしく生きる”ことへの挑戦。
もう一つは、これが本邦劇場初公開となるが、シアマよりも前からこの分野で素晴らしいキャリアを築いてきたセバスチャン・リフシッツのドキュメンタリー映画『リトル・ガール』である。ロールは、まさにその時期に性別違和を自覚し始めたのだと捉えることができると思うが、『リトル・ガール』の主人公であるサシャは、出生時に割り当てられた性別は”男性”だったが、7歳にしてすでに自分は女の子であるという性自認を確立していて、家族もそれを受け入れ温かく見守っている。とはいえ、サシャの通う小学校を筆頭に、社会はなかなか認めてくれない。
また、今はよくても、サシャが将来どうなるのだろうか、家族はその不安も隠せない。その闘いや不安の日々を、サシャや家族たちの信頼を得ながら、1年かけて丁寧に取材し撮り上げたのがこの映画だ。しかし、リフシッツは、そんな日々においても、サシャが女の子として人生を楽しもうとする、そんなちょっとした幸せそうな瞬間を逃さない。
そこにおいて、『トムボーイ』と『リトル・ガール』は、フィクションとドキュメンタリーの垣根を越えて微笑みを交わし合うのだ。