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「ストリートアートの聖地」英・ロンドンのブリックレーンとは。バンクシー研究家でライターの鈴木沓子がレポート

階級社会の英国をタフに生き抜く移民の姿や、そこに息づく文化の多様性と家賃の低さに惹かれたクリエイターが集まってきたのは、1990年代初頭のこと。今では観光名所のひとつとして人気だが、現在ではコロナパンデミックによる深刻な経済ダメージや大規模な再開発計画で地域が揺れているという。ちょうどオミクロン株が拡大する直前の2021年末、久しぶりに現地に足を運んでみた。

photo&text: Toko Suzuki

ここ十数年ほど、バンクシーをはじめ数多くのアーティストの活(暗)躍によって、グラフィティやストリートアートは拡張を続けながらひとつの文化として国際的に発展、現代アート市場においても無視できない地位を築いた。

英国・ロンドンのブリックレーンを中心とするイースト・ロンドンはその主要な舞台のひとつ。今では世界各国から新旧のストリートアーティストが集まる地域として有名になったが、もともと英国最大のバングラデシュ・コミュニティを誇る、別名「カレー・タウン」と呼ばれる異国情緒溢れる地域だ。

街の象徴が取り壊しの危機に。
アーティストたちは動いた

その中心地と言えば17世紀に建築されたレンガづくりの巨大なビール工場「オールド・トルーマン醸造所」だろう。

2000年からは、ヴィンテージの古着やアクセサリー、レコード、アートや工芸品、新鋭デザイナーのファッションブランド、オーガニック食材など約250に及ぶインディーズ系店舗が集まる「ブリックレーン・マーケット」として、若者や観光客で常にごった返す場になっている。

ここ数年間で大衆食堂的なカフェやフィッシュ&チップス屋さんなどは、サードウェーブコーヒーやオーガニックカフェなどに様変わりしてきたものの、エキゾチックな街並みとマーケットの賑わい、ストリートアートで埋め尽くされている雑多な風景は、今も生き続けている。

「ブリックレーンの現在はどうなっているんだろう?」と気になったきっかけは、この「オールド・トルーマン醸造所」が取り壊されるというニュースを聞いたから。数年内に全く新しい商業施設を建設する計画が決定したという。

オールド・トルーマン醸造所跡地の広場
ブリックレーン・マーケット(オールド・トルーマン醸造所)の広場 
2000年代初頭のバンクシー、インベーダー、シェパード・フェアリーというオールスターの作品群が残るオールド・トルーマン醸造所の広場もブリックレーンに位置する。さまざまな国の料理を廉価で提供する屋台も多く、いつ来ても若者や観光客で賑わっている。ペイントされたレンガの煙突やその下に集まる料理、古着、雑貨、インテリアやアート作品など無数のインディーズショップの賑わいはイースト・ロンドンの歴史建築物であるオールド・トルーマン醸造所の建物を複合商業施設へと再開発する計画に約7000通もの抗議メールが集まったとか。建物や小規模コミュニティを守る運動はコロナ禍中も断続的に続いている。

そんな中、90年代からイースト・ロンドンで活動しているストリートアーティストのベン・アインが、ビッグ・イシューとのコラボ作品を突如発表した。ビッグ・イシューはホームレス支援のNPO団体で、ベンは彼らが発行する同名の月刊誌で1号限りのアート・ディレクターを務め、3種類の表紙をデザイン。そのオリジナル作品をイースト・ロンドンはショーディッチの「ジェラス・ギャラリー」で展示、売上金をビッグ・イシューの活動に寄付したのだ。

BIG ISSUE ベン・アイン コラボ
The Big Issue アート・スペシャル号(2020年3月号)  ホームレス支援団体ビッグ・イシューが掲げるテーマ「A hand up, not a hand out (施しではなく、自立するチャンスを)」をベン・アイン特有のタイポグラフィによって表現したアート特集号。ベン・アインとジェラス・ギャラリーは2016年にもビッグ・イシュー2億冊突破記念のコラボレーション企画を行っている。Photo:Ben Eine / Ourtypes 

アーティストやクリエイターの活躍によって街の付加価値と不動産価格が吊り上がって、もともと住んでいた地域住民が立ち退きを余儀なくされるジェントリフィケーションの問題は、ロンドンだけでなく、ニューヨークや東京でも、都市が抱える深刻な課題となっている。

中には、アートが都市の再開発事業などに利用される「アートウォッシング」なる造語も生まれているが、アーティストをスケープゴートにすれば問題の本質を見失ってしまう。都市の再開発が問題になるのは、地域住民が都市計画の主体になれない仕組みにある。そしてジェントリフィケーションが問題になるのは、街から「共有地」が失われて、不動産や土地の金融商品化が進みすぎたからだ。

コロナパンデミックと再開発の問題で地域コミュニティが打撃を受けているとき、いち早くアートを通じた支援に取り組んだベン・アインは、ストリートアートが地域とともに生きていて、決して「街を装飾するためのもの」ではないことを示した。ちなみにベンは、ブリックレーンから徒歩圏内のショーディッチに『LOVE』の壁画も残している。

ベン・アインのLOVE
ベン・アイン『LOVE』
ベン・アインと言えば、アルファベットをカラフルにデザインしたフォントでストレートなメッセージを描いたミューラル(壁画)が特徴。2010年にはデービッド・キャメロン元首相がアメリカを訪問した際、当時のバラク・オバマ大統領にベンのプリント作品をプレゼントしたという逸話も。ベン本人は「ホワイトハウスのトイレに飾られているんじゃないか」とイギリス人らしい自嘲的なコメントを発表していた。

イースト・ロンドンに住み続けながら現在も活動を続けるアーティストと言えば、日本でも人気が高いスティック。オールド・スピタルフィールズ・マーケット近くの通りには、スティックが2010年頃に描いた『ストリートで手をつなぐカップル』の壁画が現存している。作品状態が極めて良好なのは、地域住民や他のライターたちから受け入れられていることはもちろん、スティック自身が今もこのエリアに住み、こまめに作品の修復を行っていることが大きい。

2020年に、コロナパンデミックによる経済危機を地域とともに乗り越えるため、新作の版画『手をつなごう』を10万枚もプリントして、ロンドン東部ハックニーの住民に無料配布している。

スティック『ストリートで手をつなぐカップル』
スティック『ストリートで手をつなぐカップル』
ブルカに身を包んだムスリム女性がパートナーと手をつないで道を歩いているほほえましいミューラル。バングラデシュ系移民のコミュニティとしても有名なブリックレーンという土地柄をテーマに女性をエンカレッジした。2017年に行われた「イギリス人の好きなアート作品」では、本作品が第17位にランクインしている(第1位はバンクシーの『風船と少女』でした)。

地域に愛され、時代に寄り添う。
アートのあるべき姿がここに

そしてブリックレーン・マーケットから目と鼻の先には通称「ビッグ・バード」と呼ばれる、4メートル弱の巨大なミューラルがある。ベルギー出身のロアは、その土地や地域ゆかりの野生動物や絶滅危惧種を描く作風で知られるアーティスト。

2010年に制作されたこの作品は、もともとはサギを描く予定だったところ、現場近くの住民と話をしている中で「すべての民族にとって神聖な鳥である鶴を描いてくれないか」と依頼されて、急遽テーマを変更したのだとか。約10年経った現在も良好な状態で残されていて、写真を撮る観光客も多い。

ロアの巨大壁画 通称「ビッグ・バード」
ロアの巨大壁画 通称“ビッグ・バード”
2011年ハックニーに描いた野ウサギの壁画は建物の所有者に許可を取って描いた作品にもかかわらず、行政側が「違法グラフィティ」として清掃しようとしたところ、「ウサギを殺さないで」と訴える2000通以上もの抗議の意見書が殺到。結果的に野ウサギは清掃を免れたが、現在は建物ごと消滅。残念ながら作品の命が極めて短いことがストリートアートの宿命である。

 黎明期のストリートアートを振り返ると、大きな影響を与えたのがスマホとSNSの存在だろう。現在ではストリートアートの地図アプリもあるし、SNSを検索すればどんな作品なのか、すぐに画像が上がってくる。ゆえに、実際に現地に足を運んだときに、既に行政に清掃されていたり、他のライターに上書きされたことを発見してうなだれることも少なくなった。さらに、誰もが高性能のデジタルカメラ付き携帯電話を持つ時代に生まれたアーティストもいる。

ファナカパンの作品によく登場するモチーフに、バルーンがある。その質感や光の反射、表面に映り込む景色までリアルに表現できる確かな技術は、自分の目で見てもびっくりするが、スマホで撮った写真を見るとさらに驚くという、まさにSNS時代のトロンプ・ルイユ(だまし絵)と言える。

ファナカパン「スマイルマークと対峙するバルーン」
ファナカパン“スマイルマークと対峙するバルーン”
地面に垂れ下がっている(風に描いている)風船の持ち紐がリアル!驚くのは作品の大きさで、いずれも4、5メートルに及ぶ大作ばかり。東京・西麻布の交差点近くの壁にも作品が残されている。

また最近では、女性のストリートアーティストの活躍を見られる機会が増えたのも嬉しいところ。ロンドン在住フランス人アーティストのザブーは、アパートメントの外壁に足場を組み、窓枠を上手く避けながら巨大なオードリー・ヘップバーンの肖像画を描いている。

オードリーといえばロンドンでバレエ学校に通いながらモデル業などで生計を立てていた時代があったり、ハックニーが舞台の映画『マイ・フェア・レディ』が代表作のひとつであるなど、イースト・ロンドンゆかりのスターといえる。

チューリップを手に持つ美しい横顔は、かつて「庭に花や木を植えることは、明日を信じることよ」という言葉を残したオードリー自身のたたずまいや、近くに位置するコロンビアロードのフラワーマーケットの歴史や背景をも立ち上がらせている。

ザブーによるオードリー・ヘップバーン
ザブーによるオードリー・ヘップバーン
ザブーは2022年3月、ロンドンのサーチ・ギャラリーで初の個展『イン・ゼア・アイズ』を開催中。コロンビアロードで日曜日の朝に開催するフラワーマーケットはさまざまな種類の切り花、苗、球根、ハーブ、鉢植えなどを投げ売りする露天市で草花好きには本当におすすめ。

ブリックレーンの歴史をつくった
バンクシーの功績とは

そして観光客向けのウォーキングツアーでも人気が高いバンクシー作品だが、2000年代初頭まではイースト・ロンドンのあちこちに点在していて探すのに苦労しなかったものの、現在では片手で数えるほどしか残っていない。その中でもかなりよい状態で現存する作品と言えば、クラブ「カーゴ」の敷地内にある『道路庁公認グラフィティエリア』。

バンクシー「道路庁公認グラフィティエリア」
バンクシー“道路庁公認グラフィティエリア”
普段はグラフィティを取り締まっている警官もかわいいプードル犬の警察犬を連れている。“道路庁公認グラフィティエリア”の下には小さめのフォントで「ゴミは持ち帰りましょう」と但し書きを付け加えているのが心にくい。ストリートアートが文化として育まれてきた背景にはライターやアーティストたちに「ゴミのような作品は論外だし、作品は残しても物理的なゴミで街を汚すのもやめよう」という姿勢や地域へのリスペクトがあったからこそ。作品は透明のプラスチック板で保護されているが誰でも見学可能(現在カーゴは休業中)。

当時バンクシーはいかにも行政のお墨付きであるかのような「偽ロゴ」をステンシルで制作し、ロンドン中の壁のあちこちに「リーガルウォール(グラフィティを合法的に描ける壁)」を大量生産するゲリラ活動を行っていた。

その後、約20年間で、ブリックレーン周辺がタギング、スプレーアート、ステッカー、インスタレーションなど、さまざまな種類の作品群で埋め尽くされた。事実上の「ストリートアート解放区」状態になることを、さすがに当時のバンクシー自身も想像していなかったんじゃないかと思う。

新旧のアーティストが集まってしのぎを削るロンドン東部。改めて訪れてみると、ストリートアートがいかに地域やコミュニティとともに生きているのか。そして、都市のジェントリフィケーションという問題と切り離せない存在であり、だからこそ常にアートが現在進行形で更新され続けているのだという事実を再認識させてくれた。