「距離感が近い」。こども心に感じた大阪のイメージ
1985年9月に大阪で生まれた。
大阪の酒場で年配の方にそう言うと、ピンとくる人はピンとくる。「おぉ、あの年なぁ」と。つまり、その年は阪神タイガースが(その後2023年まで、38年ものあいだ待つことになる)日本一に輝いたシーズンなのだ。
阪神のリーグ優勝は10月16日、その後11月2日に日本シリーズ制覇。だから、生まれて数ヶ月の頃に撮られた写真のわたしは、いつもタイガース優勝記念グッズのバスタオルにくるまれている。
大阪に限らず、下町の酒場で年配男性と話すとき、天気の話なんかを入口にするとして、次に無難な話題の筆頭がプロ野球と相撲だろう。ただし、野球の話題には注意が必要だ。大阪・関西だからといって、安易に「どうせ阪神ファンでしょ」と決めつけて臨むと、あらぬトラブルを招きかねない。大阪市内の下町の酒場には、意外なほどにオリックス・バファローズのファンも多い。たいていは近鉄(バファローズ)時代からの(あるいは阪急ブレーブス時代からの)筋金入りのファンだから、プライドも高い(もちろん、巨人ファンだっているし、各球団のファンがいる)。
プロ野球について言えば、わたし自身はとくだん応援する球団がない。だから、たいていの話には合わせられる。せっかく記念すべき年に大阪に生まれたのだけど、生後1歳になるより前に愛媛県新居浜市に引っ越した。それから、次は5歳で岐阜県岐阜市、さらに10歳で福岡県北九州市小倉へと移り住み、2004年の4月に大学入学のタイミングで大阪に帰ってきた。
いちおうプロフィール等では「大阪生まれ」と書くけれど、物心ついてから大阪で暮らしたのは18歳からで、それも学生時代に住んだのは大学のある北摂(豊中市)なので、そこは大阪府とはいえ「大阪」ではなく、コテコテの大阪弁を話すひともあまりいない(大阪のひとはよく「淀川から大和川までが大阪」などと言うが、それはおおむね「大阪市」に対応する)。
そんな経緯で、いまだ満足に大阪弁をしゃべることさえできない。移り住んだどの土地の方言も、当時はなんとなくしゃべっていたのだろうけど、いまはもうしゃべることができない。それは、贔屓のプロ野球球団がないことと、ちょっと似ている。そういう意味で、どこかに「根」をはっている感覚をもったことは、一度もない。
なので、大学から大阪に帰ってきたのは、べつにタイガースのためではない。大阪市内には母の実家がかつてあり、親戚もたくさんいた。そのため夏休みや正月にはよく来ていたし、なじみもあった。でも、それも帰ってきた理由ではない。
じつのところ、親戚に会うためにたまに来る大阪の下町の雰囲気とそこに住む人たちには、特有の苦手意識もあった。やたらと距離感が近いし、大阪弁の語調とテンポはちょっと怖かった。大阪にいると、いつも息を潜めつつ周囲の様子をうかがっていたような記憶がある。やたら濃い人間関係の「クラブ」にうっかり混ざってしまったような感じ、と言えば伝わるだろうか。
大阪は、本当に“内輪的”な都市なのか
そんな大阪市内に移り住むことになったのは25歳のとき。住んだのはJR大阪環状線・寺田町駅から四天王寺あたりのエリア。大阪の古い下町だ。それからずっと、数度の短期的な転居はあれど、同じあたりに住んでいる。だから、もういちばん長く住んでいるのは(今度こそ、まぎれもなく)「大阪」だということになる。
大阪市内、それも四天王寺のほど近くという「大阪の古層」の気配があるエリアに長く住んでみて、ようやくわかってきたことがある。
大阪は、こどもの頃に「客」としてたまに来たときに感じていたほど、他者との距離が近く、無神経に立ち入ってくる内輪感の強い「クラブ」的な街では、かならずしもなかった。もちろん、そういう「大阪っぽい」ふるまいをする人も現にいたりするのだけど、それだってほとんどの場合にはかなり慎重に、顔色をうかがいながらなされている。
大阪という街の歴史を紐解くと、現在の中心地であるJR大阪駅・梅田エリアが発展したのは、かなり最近のこと。それまでずっと街の中心は、いまも大阪城があるあたりを北の端にして、南から半島状に伸びていた「上町台地」にあった。いまでいうと、谷町筋という大阪城から四天王寺(そして天王寺駅)までを結ぶ通りが、南北に延びる上町台地のもっとも高い位置にあたる。この谷町筋が、長らく大阪のメインストリートだった。
この上町台地には、古代に「難波宮(なにわのみや)」と呼ばれた都が150年ほどあったのだけど、その時期を除いて、大阪という街が政治的・文化的な「首都」であったことは基本的にない。この街の古層をつくっているのは、難波宮より先に建立されていた四天王寺と、海運の街だった大阪を象徴する住吉大社というふたつの大きな寺社なのだ。
ふたつの寺社を中心にひとが集まり、門前町が形成され、商業が発展、富が集積し、物流の拠点となっていったのが、大阪という街のなりたちである。豊臣秀吉の時代、つかの間の政治的中心地になりかけていた大阪城も、もとは石山本願寺があった跡地に築城されている。織田信長を追い詰めた当時最大の寺社勢力の拠点が、大阪の中心にあったのだ。
そう考えると、大阪という街はずっと、公家が住まう政治的都市だったこともなければ、武士が直接統治する地方都市だったこともなかった。古代から現在まで、基本的に宗教勢力と商人たちが担う「民」の街として栄えてきたと言ってもよいのではないかと思う。もちろん、わたしは歴史学者でもなんでもないから、これはまぁ酒場での与太話くらいで聞いてもらった方がよいのだけど。
家からほど近い四天王寺や谷町筋を出歩いていると、そんな大阪の歴史の気配をふと感じる。国であれ地方であれ、その「都」には醸成されるような「自分たちが真ん中」という感覚が、大阪にはあまりない。関西であれば京都、日本という単位では東京があって、そこは疑いようもなく歴史的・文化的、そして政治的な「中央」である。
大阪は、最初からずっと周辺にある街で、だからそれは独自性があるようで、いつも「中央」に対して「そうではない」もの、つまり別の選択肢(オルタナティブ)として、自分たちを位置づけている。中央とは「異なる」ことが存在意義であり、価値になるものとして発展してきた街なのだ。時の政権や権力者の意向が変わるのなら、それをいち早く把握して、たちふるまいを考えなければならない。
商人はいうまでもなく、宗教も一種のサービス業であり、接客業でもある。だから、日常のミクロなレベルでも、つねに「客」の顔色を読んで、言い回しを調整し、できるだけ「ご機嫌」にやってもらえるようふるまわなければならない。
なので、大阪の特徴として指摘されがちな、「間断なくしゃべる」とか「話にオチをつける」とか、その手の習慣はむしろ商人的な一種のサービス精神からきたものかもしれない。全国的に広がった「知らんけど」のような言い回しも、無責任さの現われというよりも、サービス心の発露としてつい話を「盛って」しまう傾向と、それとセットでの「照れ」や一種の誠実さ、最後は自分を下げて笑いをとるという商売人マインドから来ているのではないかと、大阪弁ネイティブの用法を観察していると思う。
大阪は、ただ無遠慮で不躾、人との距離が近い「だけの」街ではなくて、そういう距離の詰め方も含めて、他者(お客さん)との距離感に敏感で、それを巧みに操作し、その場をうまく回そうという「バザール」的緊張感に満ちた、繊細な街でもあるのだ(なお、こうした「ことば」に着目した話題については、近刊の金水敏『大阪ことばの謎』(SB新書)と金水先生とのトークイベントから多くの示唆をいただきました。併せてぜひ読んでみてください)。

恥じらいの都市、大阪。クラブを装った、バザール的コミュニケーション
そんな大阪だから、個人でもお店でも「かっこつけ」(方言では「いいかっこしい」)は忌避される。それは自分を大きく見せることで、なにかの権威や価値の体系を背負うことで、そこには他者(お客さん)が安心できるような「隙」がないからだ。大阪で長いこと、酒場を含めていろんなお店に行っていて、「大阪らしい」と感じるのは、そういう隙というか、ちょっとした遊びとか、抜けたところがあるようなお店だ。
それは謙虚さとか「粋」の美学というより、なんというか、大阪のひとはたんに恥ずかしがりなのだと思う。バキバキにかっこをつけることが。偉ぶったり、自分が場の主役の地位を占め続けたりすることが。会話のなかでボケたりツッコんだりするのも、話者のターン交代を意識するからという側面があるし、そこには自分だけがスポットライトを浴びるのは恥ずべきことで、会話の参加者全員がなるべく機嫌よくあってほしいというサービス心さえある。
大阪は「含羞」の街で、大阪人は恥じらいがちな人たちなのだと言ったら、驚くだろうか。いつだって、誰もがそうだとは言わない。けれど、15年も大阪の下町に住んでいて見えてきたのは、街とひとたちのそんな姿だ。だから、かつての大阪への苦手意識はもうない。もちろん、そんな大阪人の傾向はいいことばかりではなく、外部の権威や同調圧力に弱いということでもあるのかもしれないけれど。
なんでそうなんだろう、と考えてみると、先ほどの「宗教と商業の街」という観点に立ち返ってくる。それを「バザール」的だと述べたが、そこにはたんに商売根性とかサービス心ばかりでなく、もう少し重要な特徴がある。バザールでは、いつ誰が来るかわからず、お店は客を選ぶことはできない。この「隣に誰がいるかわからない」ことを前提にする感覚が、大阪には比較的あるのだと思う。
それは歴史的な経緯が複雑に折り重なった土地で、しかも住んだひとが街に合わせるのが当然の「都」ではないから、ということかもしれない。近代に区画整理されたとはいえ、古くからの因習や規範意識が根づく街並みが残るのが大阪だ。通り一本を隔てて、高級住宅街とそれとは地価の桁がまったくちがうエリアとが隣接している。ある通りでは特定の信仰を共有するひとが多く、別の通りでは特定のルーツをもつひとが多い。さまざまな出自のひとが行き交い、隣り合っている街なのだ。
長い歴史を背景とした近隣国にルーツをもつひとたちも、直近にやってきた外国出身者も、高度経済成長期に単身、労働者としてやってきた地方出身者も、いろんなひとが隣り合って、ときとして同じ酒場で空間と時間をともにしたりもする。少なくとも、わたしが住むあたりのように、土地の複雑なコンテクスト(文脈)に敏感な地元のひとが多い下町は、そういうことを当たり前のものとして、歴史を重ねている。
わたしが居心地よく感じる大阪の酒場は、隣で呑むひとが自分とは異なるかもしれないというしかるべき緊張が、しかしそれを超えて、場の一体感をもてるかもしれないという希望と、ちゃんと共存している。それは、その場に阪神ファンも、オリックスファンも、なんなら近鉄ファンも阪急ファンも南海ファンだっているかもしれないというのと、そんなにちがうことではない。

哲学者シモーヌ・ヴェイユは「根をもつこと、それは魂のもっとも切実な欲求であり、もっとも無視されてきた欲求である」と書いた。わたしもずっと、この欲求を無視してきたか、あるいはそれに積極的に背を向けてきた。「根をもたない」ことこそ、自由さではないかと。
そういう気概は、いまもある。けれど、大阪の下町で過ごした15年間は、ひとつそれを「根」と呼ばなければ嘘になるだろうというものを、もたらしてくれた。
だから、今晩どこで呑んだとしても最後にはいつもの街に帰って、少しだけ呑みなおすだろう。そこはもう自分の街で、自分もまた一員として一種の責任感をもつ街なのだから。贔屓のプロ野球球団はいまだにないけれど、こうしてある街の一員だと感じられることは、文字どおり身に余る幸せなことだと思っている。
いやまぁ、よう知らんけど。