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お店を愛している:朱喜哲「バザールとクラブの哲学」Vol.1

お店って不思議だ。誰しもがふらりと立ち寄れる“公共的”な場でありながら、ひとたび足を踏み入れると、店主こだわりの“私的”な魅力も溢れている。「公共的なもの/私的なもの」がないまぜとなって、自宅とも公共施設とも異なる空間を醸成する。「お店とはなにか」。哲学者・朱喜哲が綴る、身近で重要な問題について。

text & photo: JU Heechul

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お店には、そこの「あるじ」の人生が現れる

お店が好きだ。

さまざまなジャンルの飲食店が好きだ。服屋や雑貨屋、本屋もいい。そこに店主や店員の顔が見えるような、その人生を感じられるようなお店でさえあれば。居心地がよいお店も、背筋が伸びるようなお店も、どちらも好ましい。それが店主のめざしている店のあり方に沿っているのでさえあれば。

だから、しょっちゅうお店に通う。通いながら考える。よいお店ってなんだろう。そして、よい客ってなんだろう。そんなことをずっと考えている。

たぶんそれは、自分が広い意味で「お店の子」として育ったからかもしれない。わたしがいま住んでいる家を「サロン」として地域に開いているのも、おそらくそういう個人史に由来しているのだろう。このへんの話はまたいつか、あらためて。

とはいえ、ひとまず酒場でするような簡単な自己紹介だけはしておこう。わたしは哲学者だ。テツガク。口頭だと、えっなにと聴き返されることが多いのだけど、文字面ならまぁわかるだろうか。哲学という学問を大学で教えたり、本を書いたりしている。日本ではたぶん数百人くらいしかいないレアな職業だ。

哲学者だから、まぁお店のよしあしを語る職業的な資格はない。でもわたしにとって、お店というのはとても哲学的な思考に誘われ、またその実践が問われる場所だ。そして、お店をやっているひとは、そのひと自身がどう思っていようと一種の哲学者・思想家でありうると思う。

だから、わたしはここで哲学者として、お店についてことばを紡いでみたい。それはもしかしたら、いや、もしかしなくてもえらく野暮なことかもしれない。だけど、ことばを生業にする者として、もてる力を尽くして自分の愛するお店について語ってみようと思う。なぜって、こちらから差し出せるものはそれくらいしかないのだから。

お店には、そこの「あるじ」の人生が現れる。お店をやるということは、それまでとこれからの人生を差し出すことでしかないからだ。それは飲食でも、服屋でも本屋でも変わらない。ある空間を「自分の店」として「客」を迎え入れることは、あらゆるセンスと知識を総動員して、一種の結界を張ることだ。

一歩足を踏み入れると、あ、ここから空気がちがうと感じさせるようなお店が好きだ。あるいは外から気軽に入れるのだけど、そのまま奥まで入ってふりかえると、これはとんでもないところに足を踏み入れてしまったぞと感じさせるような懐の深いお店も、好きだ。

大阪市の蕎麦がき店〈ぐーちょきぱー〉
筆者が「ここに行くとくつろげる」お店の筆頭として挙げる大阪市・杭全のそばがき屋〈ぐーちょきぱー〉。手がけたのは木工家〈いつもココロにオカヒロフミ〉さん。

公共施設や自宅とは異なる「お店」の特異性

顔が見えるひとりの店主が、自分の人生経験というもっともプライベートなものを、原則的に「客は選べない」という意味でパブリックな市場に差し出す。ここにある矛盾と緊張が、「お店」というものを一つひとつ特別なものにする。

だからお店は、行政が整備する公園だとか、役所や警察署、公営図書館のような疑いなくパブリックな場所とは異なる。また、たとえ民間であっても、駅や病院、劇場のような場所とも異なる。こうしたパブリック・スペースに「あるじ」個人の気配は不要であるどころか、むしろ排されるべきだろう。こうした場に属人的なプライベート感はふさわしくない。しかし、お店は違う。

また逆に、お店とは家(自宅・自室)のような典型的なプライベート・スペースとも異なる。その場の「あるじ」の許可なく立ち入ってはいけないのが私的空間というものだ。お店にも、たしかに一定程度までその要素がある。たとえば、あるタイプのよいお店をほめる表現として、「店主の家に遊びに行ったような」感じの店、というものがある。

わたしがもうずいぶん長いことお世話になっている服屋の友人は、芦屋の山奥にある自宅のベランダにテントを張っただけの空間を、月に一週間だけ開く「お店」にしている。文字通り店主の「家」以外のなにものでもない、すごいロケーションだが、そこは山奥にもかかわらず全国各地から度を越した服好きが集ってくる、知るひとぞ知る人気店だ。

洋服店〈Keu〉
芦屋の山奥・奥池にて“月に一週間だけ”営まれるお店〈keu〉。月ごとに洋服や割れ壺など、店主の興味により展示内容が変わる。

あるいは、わたしにとって行きつけといってよい酒場のひとつは、まるで店主の自宅リビングにいるような店、と評されることもある。そこのカウンターでよく会う常連客とは、あまりにひんぱんに会っているので、顔を合わせても会釈するくらいで、まともなあいさつさえしなくなった(きょうだいって、そんなものではないだろうか?)。

しかし、比喩や空間的にはどうあれ、やはり「お店」は「自宅」ではない。

たとえ自宅兼店舗であっても、営業時間外であれば、客は入ることができない。しかし逆に、営業時間中であって、満席などのしかるべき理由がないときには、原則としてお客を断ることはできない(あるいは、断るべきではない)だろう。

お店は、もっぱら金銭を介して、モノやサービスを提供する場所だ。この「交換」に、一種のパブリック性がやどる。メニューとして設定されたモノやサービスを頼んで対価を払えば、基本的に同じものが、同じように提供されなければならない。逆に、同じお金を払っているのにモノやサービスの質・量に差があるとしたら、客はクレームを言うことができるし、あるいは黙ってその店を見限るだろう。

実際にどうというより、少なくともこうした「期待」や(一種の職業的)「義務」がある、という点で、お店とはやはりパブリックな場でもある。

「イエ」と「ミセ」によって、「社会」が立ち現れる

2024年に「建築界のノーベル賞」ことプリツカー賞を受賞した建築家の山本理顕は、これからの社会での住居のあり方を論じた『地域社会圏主義』という本のなかで、「イエ(家)」と「ミセ(店・見世)」を区別している。山本曰く、地域に「社会」というものが立ち現れるには、ただ寝食するための「イエ」だけでは不十分なのだという。

現代のように、職場のあるオフィス街と自宅のある住宅街が遠く離れてしまっている都市部では、いかに多くの住民がいてもそこは「社会」にならないのだ、と。

山本が強調するポイントは「ミセ」だ。どれだけ小さな商いでもいいから、ただ帰って寝るための「イエ」というだけでなく、その場所が地域のひとびとになにを提供するのか、どんな機能をはたすのか、明らかにするような「ミセ」が多くなってはじめて、地域は社会になっていく。

これはたんなる理想論だろうか?
いや、コロナ禍以降、わたしたちの生活は大きく変わった。可能な職種については在宅ワーク化が進み、これまで「帰って寝る」だけだったかもしれない住宅街は、突如として「職場のある街」になった。そこでは、小規模ではあるにせよ、ランチ時の外食や食後にコーヒー休憩するカフェ、仕事終わりに一杯やる酒場といった「お店」へのニーズが、あらたに立ち現れてくる。

わたしが住む大阪市内の昔ながらの住宅街にも、そんな変化の波が押し寄せてきた。コロナ自粛を挟んで、いまたくさんの新しい店が近所にでき、ちょっと前には考えられないほど、近場での外食・カフェ等の選択肢が増えた。

街を見わたしても、チェーン店などのいわゆる資本系のお店が駅前等の繁華街で苦戦を強いられ撤退するのとちょうど対照的に、住宅街で近所に住んでいるひとがオーナーや店主として開業する個人店が増えている。とくに大阪市内の飲食シーンでは、かつて繁華街の人気店で腕をふるっていた有名シェフが、誰も雇わない「ワンオペ」の個人店を出すという流れが、確実に存在している。

飲食店ばかりではない。たとえば本屋でも、都心部の大型店や大手チェーンが苦戦を強いられる一方で、店づくりも選書も店主個人のキャラクターが鮮明な「独立系書店」が台頭している。服屋でも、大都市の繁華街ではなく、地方や住宅街にあるような小さな個人店が、Instagram経由で情報発信して、感度の高い客を集めている。わたしも、さいきん地方への出張のたびに服屋や本屋を覗くが、どこも個性と対象への愛があって、おもしろい。確実に大都市圏よりも熱量が高いよいお店たちが、地方にひしめいている。

ポストコロナの時代、私たちは期せずして山本が当時あくまで理念として描いたような、「地域社会圏」に近づくような時代を迎えようとしているのかもしれない。いま、わたしたちは「イエ」と「ミセ」が、つまり私的空間と公共的空間が──もしかしたら戦後の高度経済成長期以来はじめて──隣り合い、そして個々人が営む「ミセ」のなかで公と私がせめぎあいはじめた世界に生きているのかもしれない。

そうだとして、山本が述べたように、地域に失われた「社会」が立ち現れてくる兆しはあるのだろうか?
それともただ一過性の流行にすぎないのだろうか?

わたしは、いまこそ「お店」が、そして自分の住む街が、いつになくおもしろいと感じている。よい店が、ほんとうに増えているように感じられる。それはただ、わたし個人の人生のタイミングゆえなのだろうか?それとも、なにかしらの時代精神がそこにあるのだろうか?

まだ、これらの問いに答えを出すことはできない。

しかし、少なくともわたし自身は、住む街とそこで生きる人たちとの関係性が変わった、と思う。いまほど酒場が楽しいと思ったことはないし、いまほど服屋や本屋がおもしろいと思ったこともない。だから、ここでは自分の体験を通じて、これらの問いを考えてみたい。お店は、街は、やはりいつだって哲学的で、そしてほかでもなく時代の産物だと信じているからだ。

そういうわけで、「お店」という誰にとっても身近で、そして重要な場所があわせもっている公共的な顔〈バザール〉と私的な顔〈クラブ〉をめぐる哲学の旅に、ようこそ。

これから少し、この旅路につきあってもらえるとうれしい。

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