「永明との最初の出会いは、よく覚えています。私と飼育スタッフとで中国・成都に迎えに行くと、永明は運動場の奥で丸くなっていて、遠くからしか見ることができなかった。北京の動物園から移動して4ヵ月ほどだったから、まだアウェー感があったのかもしれませんね。それに比べてメスの蓉浜は、観覧通路の近くの木に登って堂々と、伸び伸びとしていた。それが第一印象でした」
その後、中国の成都ジャイアントパンダ繁育研究基地から日本に運ぶため、輸送用の小さな檻に入れる時には、躊躇(ちゅうちょ)なくすっと入っていって拍子抜けしたという。
「もちろん、檻に入るトレーニングはしていたと思いますが、あまりに動きが自然だったので、なんて警戒心のない動物なんだと驚きました」
永明と蓉浜が日本に着いたのは、1994年の9月。関西国際空港が開港して3日目のことだった。飛行場では、誰よりも早くパンダが降りるというVIP待遇で、アドベンチャーワールドまで大切に運ばれた。
「園に来てからは、永明の方が早く慣れて、どちらかというと蓉浜は臆病に見えましたね。それから3年経っての蓉浜の死は、本当に、まさかという出来事でした。以降、永明はずっとお腹を壊していましたし、2000年に新しいメスが来るまでは、なんとかこのオスを生かして次につなげていかなければプロジェクトの意味がないと必死の日々でした」
永明の健康状態は、中尾さんを悩ませた。それまでの食事内容を見直し、竹を主体としたエサへと変えていく試みが始まったのはその頃だ。
「当時、穀物やタンパク質を含んだ“パンダ団子”が消化できず、体の負担になっているのではないかと考えて、良質の竹を少しずつ与えるようにしたんです。重たい食べ物はそれだけでお腹いっぱいになってしまって、動く必要もないから動かず、結果、すごく単調な暮らしになる。
竹をたくさん食べるためには動きますし、1日の3分の1の時間がそれに費やされます。主食を竹にすることで、本来のパンダらしい生活リズムを取り戻すことができたんです。なんとか健康になってもらいたくて、とにかくおいしい竹ばかりひたすら与えていた。永明がグルメになったのは致し方ないんですよね(笑)」
エサを竹に変えるのも、健康状態を見ながら少しずつ。5〜6年にわたって試行錯誤しながらだった。最初は体重もなかなか増えず、健康面も心配された永明が、30歳という年まで健康で長生きしているのは、このような努力があってのものだろう。
その後、新しくメスの梅梅を迎え、初めて繁殖に向けての交配が行われたのは2001年のこと。携帯電話も今ほど普及していなかった当時、出張先にいた中尾さんは、公衆電話から何度も電話をかけたという。
「100頭飼育していれば、いろいろな個体と相性を試すことができますが、永明は梅梅とペアになれなければ成立しない。心配で何度も電話をして、交尾ができたと聞いた時はすごく嬉しかったですね」
以降、永明は梅梅と良浜との間で16頭もの繁殖に成功。なかには、冷や冷やさせられる出産もあった。
「彩浜の時は大変でしたね。陣痛が始まってからもなかなか生まれなくて、途中で陣痛もなくなって良浜が寝始めた時は、もう死産なのかなと思った。それでも、いざ生まれたと思ったら本当に小さくて、呼吸も心音もほとんど聞こえないような状態で、死んでしまったと思ったくらいなんですよ。
1頭で生まれたから、良浜は子供を取ると返せと騒ぐし。そんななかで、子供に母乳を飲ませないといけない。中国の方が、赤ちゃんを抱っこさせながら搾乳をして、母乳を飲ませてくれた。その技術もすごかった。生後7日くらいはハラハラドキドキでしたね」
繁殖に成功すれば、また忙しくなる。多い時期には7〜8頭のパンダを飼育していたパークで、最も苦労したのは竹の確保だったという。
「いろいろ与えているうちに、こういう感じの竹が好きなんだというのはわかってくるんですが、良質な竹を準備するのがめちゃくちゃ大変で。特に永明はおいしくないと食べない。昔なら、秋頃から春前まではモウソウチクをメインに与えたら食べてくれていたのが、温暖化の影響もあって、竹の質がいい時が少ない。そんななか、どの竹を入れて食べてもらうかというのも考えなくてはならなかった。毎日、竹の冷蔵庫を見て、あと1箱しかない、明日の分をどうしようと、追われていましたね。
永明がほかと違うのは、なんて苦労をさせられるパンダなんだということ。振り返ると大変なことがたくさんありましたが、それを通していろんな工夫や改善をすることができた。勉強させてもらったパンダでしたね」
繁殖プログラムの一環とはいえ、長く飼育した永明を返還した今、どのような心境でいるのだろうか。
「寂しいかと言われれば、やっぱり寂しいかもしれません。でも、これまで元気で私たちと一緒にいて、いろんなものを与えてくれた。寂しいけれど、悲しくはないですね。飼育下のオスのなかで2番目に高齢でしたが、生きているうちは彼らしく生活できるといいなと思っています」
永明とアドべンチャーワールドの歩み
1987年
7月:山東省済南市金牛公園との姉妹パーク提携。
1988年
3月:金牛公園との動物交換開始。1993年までに搬入は4種18頭羽、搬出は6種13頭羽。
9月:四川省成都市動物園よりジャイアントパンダ2頭、「辰辰(しんしん)」(オス)と「慶慶(けいけい)」(メス)が来園。
1989年
1月:「辰辰」「慶慶」中国へ帰国。
1992年
9月:中国・北京動物園で「永明(えいめい)」(オス)誕生。
1994年
5月:「永明」北京動物園から成都ジャイアントパンダ繁育研究基地へ移動。
9月:成都ジャイアントパンダ繁育研究基地より、世界初のブリーディングローン制度で「永明」と「蓉浜(ようひん)」(メス)の2頭が来園。
1995年
3月:園内に〈パンダランド〉竣工。
1996年
5月:人工授精技術修得を目的とした研修で、スタッフが成都ジャイアントパンダ繁育研究基地へ。
1997年
7月:「蓉浜」永眠。
2000年
7月:「永明」の新たなパートナーとして「梅梅(めいめい)」(メス)が来園。
9月:「梅梅」が中国で妊娠していた子を出産。国内で12年ぶりの赤ちゃん「良浜(らうひん)」(メス)誕生。
2001年
9月:「永明」初めての自然交配に成功。
12月:「梅梅」が、「永明」にとって初めての子供となる「雄浜(ゆうひん)」(オス)を出産。世界初の12月の出産。
2003年
9月:「梅梅」が双子の「隆浜(りゅうひん)」「秋浜(しゅうひん)」(共にオス)を出産。
2004年
6月:「雄浜」が将来の繁殖を目指して成都ジャイアントパンダ繁育研究基地へ旅立つ。
2005年
8月:「梅梅」が「幸浜(こうひん)」(オス)を出産。
2006年
12月:「梅梅」が双子の「愛浜(あいひん)」(メス)、「明浜(めいひん)」(オス)を出産。
2007年
10月:「隆浜」「秋浜」が将来の繁殖を目指して、成都ジャイアントパンダ繁育研究基地へ旅立つ。
2008年
9月:「永明」の新パートナーとなった「良浜」が双子の「梅浜(めいひん)」(メス)、「永浜(えいひん)」(オス)を出産。国内で初めて日本生まれのパンダの出産。
10月:「梅梅」永眠。
2009年
6月:治療、トレーニング技術と老齢個体の健康管理の修得を目的とした研修のため、スタッフが成都ジャイアントパンダ繁育研究基地へ。
2010年
3月:「幸浜」が将来の繁殖を目指して成都ジャイアントパンダ繁育研究基地へ旅立つ。
8月:「良浜」が双子の「海浜(かいひん)」(オス)、「陽浜(ようひん)」(メス)を出産。
2011年
7月:和歌山県を全国へ発信した功績に対して、「永明」「梅梅」「良浜」が和歌山県勲功爵「わかやまでナイト」の称号を授与される。
2012年
8月:「良浜」が「優浜(ゆうひん)」(メス)を出産。
12月:「愛浜」「明浜」が将来の繁殖を目指して成都ジャイアントパンダ繁育研究基地へ旅立つ。
2013年
2月:「梅浜」「永浜」が将来の繁殖を目指して成都ジャイアントパンダ繁育研究基地へ旅立つ。
4月:園内に希少動物繁殖センター〈パンダラブ〉オープン。
2014年
12月:「良浜」が双子の「桜浜(おうひん)」「桃浜(とうひん)」(共にメス)を出産。「永明」が「現在の飼育下で自然交配し、繁殖した世界最高齢のジャイアントパンダ」となる。
2016年
9月:「良浜」が「結浜(ゆいひん)」(メス)を出産。
2017年
6月:「海浜」「陽浜」「優浜」が将来の繁殖を目指して、成都ジャイアントパンダ繁育研究基地へ旅立つ。
2018年
2月:「永明」が日本動物愛護協会主催「第10回日本動物大賞」を受賞。
8月:「良浜」が「彩浜(さいひん)」(メス)を出産。
2019年
10月:老齢個体の健康管理とパンダの赤ちゃんトータルケア修得を目的とした研修のため、スタッフが成都ジャイアントパンダ繁育研究基地へ。
2020年
11月:「良浜」が、「永明」にとって16頭目の子供「楓浜(ふうひん)」(メス)を出産。
2022年
9月:「永明」が30歳の誕生日を迎える。
2023年
2月:「永明」「桜浜」「桃浜」が成都ジャイアントパンダ繁育研究基地へ旅立つ。