流行写真通信 第38回:90歳現役写真家・操上和美の評伝が示す写真家の終わりなき欲望

編集者の菅付雅信が切り取るのは、広告からアートまで、変貌し続ける“今月の写真史”。写真と映像の現在進行形を確認せよ。

text: Masanobu Sugatsuke / editorial cooperation: Francys Rocha & Hinako Tsuruta for Gutenberg Orchestra

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日本の写真家の評伝というのはそう多く出るものではないが、1月に刊行された文筆家・石川拓治による『今という永遠 写真家・操上和美の90年』(幻冬舎)は、「今という永遠」という写真論的なタイトルに加えて「操上和美の90年」という言葉も合わさり、写真の枠を超えた人生の指南書的な仕上がりになっている。90歳を迎えても今なお現役で第一線の写真家として活躍する操上の評伝は、写真という時を超える装置と向き合うことで、自らも時間を超えようとする男の強い意志を感じるものになっている。

石川拓治『今という永遠 写真家・操上和美の90年』(幻冬舎 2026年)カバー。

操上はこの本の成り立ちをこう語る。操上と石川の出会いは雑誌『ゲーテ』の2020年8月号の操上和美特集で石川がライターとして操上を取材したことに始まるという。

「その後、石川さんが僕のことを書きたいというので、『僕のことを書いてある本なんか売れない』と最初に断っているんですけど(笑)、『いや、それでもやらせてください』ということで始まったんですね。この年まで現役でやっている写真家はそんなにいないので、それで興味を持ったんじゃないかと」

石川はこの本を執筆しようと思った動機をこう語ってくれた。

「以前取材をしたときの、操上さんの言葉が深く心に残ったからです。『朝起きると、カーテンを開けて空を見る。そして自分が、今日の空を美しいと感じられるかどうかを確かめる。雨が降ってるから憂鬱じゃなくて、雨の匂いがいいなあと思えるか。曇っていようと、雲を美しいと感じられる自分の感性を起動させる』。80歳を過ぎた操上さんが、少年のような瑞々しい目で毎日世界を見ていること、何十年もそういうふうに世界を見ていることに心を打たれました。そのときに、操上さんが北海道の農家で24歳になるまで過酷な農業に明け暮れたこと。写真のことなどほとんど何も知らなかったのに、24歳で写真家となることを志して上京し、写真学校で学んでわずか数年後には原宿のセントラルアパートにスタジオを構えて、一流の写真家として活躍するようになったことを知りました。そしてそれから半世紀、90歳になった今も現役で第一線の写真家としての仕事を続けている。その秘密を解き明かしたいと思ったのです」

大江健三郎 『SWITCH』1990年3月号 1989.11.11撮影@Ose Uchiko-cho, Ehime

本書を読んで、強く印象に残ったのが操上の故郷である北海道の富良野の描写が丹念に描いてあること。操上は富良野の大自然の中で生まれ育ち、しかも24歳になるまでその地を離れなかった。

「祖父の代からずっと農業をやっていたから、僕も兄貴の手伝いをしながら農業をやろうと思っていたんです。でも途中で、どうしても外の世界に行きたくなって、東京に行って東京綜合写真専門学校に入ったわけです。富良野を出るときに写真家になろう、写真家になるんだったら日本一の写真家になろうと思って決心して出たんですよ。ただ写真で飯食えればいいというものではなくて、きちっと写真家として実をなさなきゃいけないという覚悟で東京に出てきたので、人並みの勉強をしていたのでは追いつけないなと。人並み以上のことをやらないといけないと思って、東京に来たんですね」

操上と写真の出会いとは、ロバート・キャパの写真を雑誌で見たことだ。

「その写真を見た衝撃で、写真家になったら旅ができるんじゃないか、いろんな人に会えるんじゃないかと思ったんですね。弟が日大に行ってたんで、日大の弟に頼んで。東京のいい写真学校を探してくれと伝えたら、重森弘淹(しげもりこうえん)という写真評論家がつくったばかりの写真学校が下落合にあって、そこがいいらしいと言うので、そこに入学したんですよ。僕は東京綜合写真専門学校の2期生なんですね。入学したら、篠山紀信さんが同期だったんです。彼は日大の藝術学部写真学科にも通っていて、日大と掛け持ちしてたんですね。入ってすぐに彼と仲良くなって。篠山さんは下落合の近くのお寺の息子で、都会っ子だったんです。彼は学生なのにすでにもう広告の仕事をしていて、かなり進んでたんですよね。彼と偶然仲良くなって、新宿とかに連れてってもらって遊ぶことも教えてもらって、それから東京の勉強をした感じです。また学校の副校長が玉田顕一郎(たまだけんいちろう)さんで、彼にもすごく可愛がってもらった。僕が世間知らずで人が良かったんでしょうね。よく『今晩行くよ』って僕ら学生を新宿二丁目に連れていってくれたんです。玉田さんは後に『コマーシャル・フォト』を創刊して、その初代編集長になるわけですね」

重森弘淹、篠山紀信、さらに玉田顕一郎との奇跡的な出会いが操上を写真の出世街道に導いていく。それにしても、東京に来た時には「日本一の写真家になる」と決めていることがユニークだ。

「傲慢ですよね(笑)。写真家はオーダーされなきゃ何もできないんですよ。自分の作品の写真は撮れるけれども、特に広告のように、人からお金をもらって生活するには、自分の作品の写真だけ撮っていては生活できないですよ。そうすると、俺は日本一高いギャラをとれる写真家になろうと、そういうことを自分で思わないと。そんなに世間が簡単には仕事をくれないですから」

東京綜合写真専門学校卒業後、玉田の紹介で『すまいと暮しの画報』編集部の社員カメラマンになる。

「住宅・不動産関係の新聞があって、その付属で要するに『家庭画報』のような雑誌でした。だからなんでもあるんですよ。ファッションもあれば料理もあれば、何でも撮る。そこの編集部の男性はみんな白シャツを着てネクタイをしてるわけ。僕が赤いシャツとか適当に着ていくと、局長が『おまえさ、会社なんだからちゃんとしたカッコして、普通の白いシャツを着てこい』という。僕は『わかりました』といって次の日、また違う赤シャツを着ていって(笑)。俺はサラリーマン写真家じゃないという反抗意識があって。写真の組み方でも編集部員と揉めるんです。すぐ喧嘩になるんですよ。8カ月いてもう限界だから辞めますと言ったら、暮れの11月のボーナス前で局長に呼ばれて『あと1カ月いたらボーナスが出るから、ボーナスをもらってから辞めろ』と言われたので、『局長、男が辞めたいと言いながらボーナスをもらうまで1カ月待つと、僕はそんな男だと思いますか?』と答えたら、『馬鹿野郎!』と怒られて。それで辞めたんです。ボーナスをもらわないでね」

編集部を退社後、また玉田の紹介で広告写真家の杉木直也のアシスタントになる。

「当時、サントリーの広報誌『洋酒天国』があって、その中で杉木さんがポートレートを撮っているシリーズがあったんです。それがすごくよかったんですね。この人、面白いなあと思ったいたら、玉田さんの紹介で『杉木が事務所をつくるから、そこに行かないか』と言われて。杉木さんは原宿のセントラルアパートに一室借りて事務所を始めて。ちょうど原宿が変化する時で、タイミングがよかったですね。セントラルアパートにはコピーライター・西尾忠久(にしおただひさ)さんが事務所を開いたり、写真家の鋤田正義さんや浅井慎平さん、コピーライターの糸井重里さんも事務所を開いて、杉木さんの事務所もクリエイティブ・ディレクターの小池一子さんとかいろんな人がよく来ていて、いろんな人種の聖地みたいになっていたんです。そうやって原宿にクリエイターが集まるようになる。僕は杉木さんのアシスタントなんだけれど、会議には同席を許されていて、意見を求められるんですね。それがすごく勉強になった」

スティーヴン・ホーキング/S.W.Hawking NTTデータ通信 1990.04.24撮影@CAMBRIDGE UNIVERSITY BOTANIC GARDEN, Cambridge, England

東京のクリエイティブ業界が一気に成長しつつある中、そのひとつの震源地であった原宿のセントラルアパートで操上は時代の最先端を呼吸する。しかし、彼には「遅れて来た少年」という強迫観念があったという。この強迫観念を手懐けるために彼は何をしたのだろうか。

「とにかくものを見ることにしたんです。例えば映画をたくさん見る。あの頃、新宿にアートシアター新宿文化という映画館があって、大島渚などのアートフィルムを上映していたので、そういう映画館に通ったり、本を読むことをたくさんやりましたね。僕は建築雑誌とかも取って読んでいたから、建築もすごく詳しくなった。それまで富良野にいたわけだから、とにかく勉強するしかない。写真だけでも勉強すればいいんだけど、どちらかというと横軸に勉強しようとしたから建築も勉強しましたね。またポートレートを撮るのであれば、その人のことを調べてから撮るようにしていて、作家だったらその人の本をまとめて読まなきゃいけない。なので本はよく読んでますね」

東京の写真学校に入った当初、操上は同級生たちに気後れすることが多々あったそうだが、ある時に「自分は勝てる」と確信したという。

「僕が入学した頃には、写真雑誌がたくさんあったんです。『アサヒカメラ』『カメラ毎日』など5誌ぐらいあって、そういった雑誌に同級生はみんな応募していて、それらに入選する/しないというシステムがあの時代にはあったんですね。そして僕が学校に行ってる時に『コマーシャル・フォト』が創刊されたんです。副校長の玉田さんが創刊したので、玉田さんが『今度こういう本ができるから、おまえが何か撮ってみろ』と言われて、すぐに撮影したものが掲載されたんですね。だから東京に来てから、ぼーっとしてる暇がないと思って。毎日毎日、そういうセッションのために生きていると感じているんです。入学した当初は同級生がみんな天才かと思うぐらいに写真のことを知っていて怖気付くわけですよ。でも3カ月ぐらい経ったら、彼らは全員アマチュアだなと気づいたんです。

つまり、彼らはアマチュア写真家のコンペに出して入選したとかどうかと一生懸命やっている。でも俺はプロになるんだから、アマチュアの賞は必要ないなと思って。半年ぐらい経たないうちに『彼らに俺は絶対勝てるな』と思いましたね。学校に来ている同級生の90%はアマチュア志向なんですよ。一クラスにだいたい50人ぐらいいたんですけど、玉田先生がプロになるのはクラスに一人か二人いればいいんだと言うんです。アマチュアとプロの違いは、カメラが好きか、写真を職業として捉えているかではないですか。このカメラがいいとか、このレンズがどうとかレンズの描写がどうとか、同級生がお互いに話してるわけです。僕は何を撮ってどう写すかの方が問題で、レンズの描写力がいいとか悪いとかはどうでもいいと思っていて。だから彼らは写真が好きなのね。俺は単に写真好きなのではなくて、職業を農業から写真に変えたわけだから、仕事のセッションで勝てばいいわけですよ」

VAN「BLUE DOT」1971年@Australia

操上の「職業としての写真家」観はこのような達観から来ているのだが、それは仕事としての割り切りを意味しているわけでは全くない。むしろその逆だ。

「初期の頃からギャラが安いからといって手を抜くことは絶対しないと。さらにいうと、仕事は金のためにするもんじゃないと。ひとつひとつの仕事を通して、自分が1ミリでも1センチでも成長すべきだし、成長しないんだったら仕事をする意味がない。俺が写真を撮るんだったら、自分が感じたことを自分の力で最大限の写真を撮らないと意味がない。仕事をする意味がないんだったら、生きてること自体も意味がなくなる。だから、どんな仕事でもいまだに手抜きはないですよ。でも、撮影が終わって夜になると、必ず『しまった』と思うんです。もうちょっと考えて、こっちからこう攻めたら?こういう言葉をかけたら、この俳優なりモデルはもうちょっと違う動きができたんじゃないかなと反省するんです。反省するということは、俺は勉強が足りないなと思うので。それでまた本を読んで勉強することの繰り返しで、いつも夜になるとうなされるんですよ。言葉をうまくかけられてないということは、ボキャブラリーとか観察力が足りない。だから勉強しなくちゃいけないとね」

『今という永遠』には操上の金言が多く収められている。なかでも「人間の顔こそ、一番の絶景だとわかった」という言葉がある。この考えにどうやって思い至ったのだろうか。

「人間の顔が絶景というのは、顔に心までが全部表れるから。例えばイサム・ノグチを撮影したことがあるんですが、彼は過去にあれほど苦労していて、苦労すればするほど自分の顔にそういう皺もできるし、悩みも顔に出てくる。イサムさんを撮った時は、黒澤明さんとイサムさんの対談を撮りに行ったんですね。黒澤明と言えば『用心棒』とかが大好きで、僕は黒澤さんの映画を必ず観に行きましたし、すごい監督です。でもイサムさんの方がいいんですよ。イサムさんの小さい時の苦労とか、そういうのが全部顔に出てるんですね。それで気がついたんです。顔は絶景だなと」

イサム・ノグチ 『VOGUE PARIS』1988.09.27@Akasaka, Tokyo

石川は操上の写真、なかでも肖像写真に惹かれたという。

「操上さんの肖像写真には、言葉ではうまく言い表せない不思議な『実在感』がある。何年も、何十年も前に撮影されたポートレートなのに、そこには永遠に失われることのない『今という瞬間』が写っていると、僕には感じられます。100年以上前、ヴァルター・ベンヤミンは『今の写真からはアウラが失われている』と書きました。そのアウラが操上さんの写真には確かに写っているのだと思います。

モノクロ写真の印象が強い操上だが、モノクロは彼にとってどんな意味を持つのだろうか。

「カラー写真の中心は色なんですね。色でみんなだいたい惑わされてる。色が少ない方が人は写真を深く見る。カラー写真で、派手なシャツとか着て、派手な演出をして撮ると、反射的に表面的に理解できちゃうけれども、モノクロの方が見る人が中に入りやすいし、モノクロの方が表現しやすいと思う。それは対象をモノクロという抽象に置き換えるから。そこで作家的行為がなされているので、ほかの作家的行為を考える必要がないんですよ」

操上は「広告写真なんてものはないんだ。写真は写真なんだ」という。戦争写真でもコピーをつければ広告写真みたいに見えてしまうと。

「いつくらいにそう思ったのかな。広告写真家と言われることがすごい嫌だなと思ったわけ。僕は写真を撮ってるけど、風景も撮れば人物も撮る。広告写真もドキュメンタリー写真もポートレートも写真はひとつだということに途中で気が付いて、俺は広告写真家じゃない、写真家なんだと気が付いたんです。シリアスフォトという言い方がありますが、何がシリアスで何がそうでないのか。では広告はシリアスじゃないのか。そういうジャンル分けをすること自体が気に入らなかった」

勝新太郎 『SWITCH』1995年7月号。1995.01.30撮影@CAMEL Studio, Tokyo

操上と広告だけでなく、彼の幾多の写真集のデザインでも長くコラボレーションしているアートディレクターの葛西薫は『今という永遠』を読んで、このように感じたという。

「あらためて操上さんの来し方を知り、胸が熱くなりました。操上さんが富良野を後にした8年後、ひとり同じ北海道から青函連絡船で海を渡って上京した僕の18の頃と重なって、決して弱音を吐かない操上さんは道標です」

さまざまなクリシェと抗い続けてきたからこそ、今なお現役である操上の位置がある。本のタイトルにあるように『今という永遠』とは写真を撮ることの瞬間性とそれがプリントや印刷物などに保存されることによって永続性を持つという写真の両義性を表す見事な言葉だ。彼は写真という瞬間を永らえることへの強い思いがある。

「男が水たまりの上をジャンプしたら水に影が映っているアンリ・カルティエ=ブレッソンの有名な写真がありますね。ブレッソンが『決定的瞬間』という言葉を唱えたわけですけど、あのように見事な一瞬もあるわけですが、そうではない場合は常に決定的瞬間は持続してるんですよ。例えばファッション写真やポートレートというのは、決定的瞬間が持続されてるんですね。これが決定的瞬間だと決めるというのは、写真家の傲慢でしかないんです。でも傲慢にならないとシャッターを切れない。そうやっていつも決定的瞬間を探しているわけですね」

アートディレクターの葛西薫は操上が今なお現役である理由をこう考える。

「『撮り続けているのは、撮れていないからだ』という言葉に驚きました。ずっと変わらずに、事物を、人を、一刻一刻を愛おしむ気持ち。写真を撮るほどに、もっと先にあるかもしれない何かに向かっているからだと思います。ですから年を重ねられるほどに操上さんがさらに操上さんになっていくと感じました」

石川拓治はこう考える。

「操上さんはいつも『今』を生きている。過去にとらわれることも、未来を夢想することもなく、ただ自分の生きている『今』を生き切っているからだと思います。人は『今』を生きることしかできないという真実を、彼は少年時代の富良野での生活で、骨の髄まで染み込ませたのだと思います」

ロバート・フランク 『April』(スイッチ・パブリッシング 2020年)。

では当の本人はどうなのか。何が操上をここまでドライブさせているのだろう。

「欲望です。職業的な写真家という意味において、写真を撮るという意味においては欲望とか傲慢性がないと、ダレていきますよね。だから、写真をやるというのは、欲望と絶望の繰り返しなんですね。撮れたという時と撮れなかったという時が常にあるわけです。今でも同じです。絶望の時はだいたい寝る時です。昼間は絶望しないですよ。昼間はガーッと撮影やって、ある程度いったらもういいと思うんです。これ以上せめてもダメだなと。だから絶望は夜になってから来るんです(笑)」

操上は60年以上も写真の道を歩んできたわけだが、写真をやめようと思ったことはあるのだろうか。

「いや、それはないですね。写真は面白いんです。写真はどうして面白いのかというと、現実と対峙するから。自分よりも現実の方がいろんなものが渦巻いてるので、その中で何かを発見するという面白さはありますね。なかでもポートレートが面白いのは、その人が生きてきたものが顔に全部表れますから。それを簡単に撮り切れるものでもないし、撮影中に俺の気持ちもどんどん変わるし、被写体もどんどん変わるでしょう。だから、いつも撮り切れてないと思うから、撮り続けているんでしょうね」

操上和美セルフ・ポートレイト

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