アップデートされていく古典作品。時代を超えて人々を魅了する『嵐が丘』
『ロミオとジュリエット』などと並ぶ、「究極の愛の物語」と呼ばれ、イギリスのみならず、長く全世界の人々に愛読されてきた、1847年刊行のエミリー・ブロンテの小説『嵐が丘』。これまで何度も映画化されてきたクラシックだが、その最新版を監督したのが、『プロミシング・ヤング・ウーマン』などで知られるイギリス出身の、エメラルド・フェネル。そんなフェネル版の『嵐が丘』は、これまでの原作のイメージを覆す、独創的で斬新な「嵐が丘」だ。
その現代性を、主に現在配信でも視聴可能な3つの先行作品と時に比較しながら考えてみよう。
まず、原作のあらすじはこうだ。ヨークシャーの荒野(ムーア)に暮らすアーンショウ家に引き取られた孤児ヒースクリフは、その家の娘キャサリンと深く結ばれる。だが、父の溺愛を受けたヒースクリフに息子ヒンドリーが嫉妬。父の死後に彼を虐げるようになる。一方、成長したキャサリンは、自らの階級上昇への欲望も捨てきれず、隣家の富豪エドガー・リントンと結婚。それに絶望したヒースクリフは失踪。そして、3年後に財産を得て戻った彼は、ヒンドリーを破滅させ、エドガーの妹イザベラを利用するために結婚するなど、両家に冷酷な復讐を重ねていく……。その彼の憎しみが次世代にまで及び続ける様子が、家政婦のネリーの回想によって語られる。
映画でしか『嵐が丘』を知らない人は、小説がキャサリンとヒースクリフ、それぞれの子どもの代までを描いていることを知らないかもしれない。今回のフェネル版も、子どもの代の話を、ある意味かなり大胆なやり方でカットしている。だが、この点は原点となった39年版もそうだ。
これまでの映画化においても、92年版を例外として、おおむね親の代までの話だから、その点では斬新な改変とまでは言えない。ただ、フェネル版では、キャサリンの兄のヒンドリーを割愛しているのは重要なポイントだ。
おそらくは、父と兄の役割を、父のアーンショウ氏一人に担わせることで、ヒースクリフの憎悪の対象を絞りたかったのだろう。そのことで、観る者は否応なく、ヒースクリフとキャサリンのロマンスだけに意識をフォーカスすることになる。フェネル版は、それ以外にも原作から削ぎ落とした部分は数多くあり、その分、二人の狂気の愛とも言うべき愛憎相い半ばする関係が濃密に描かれることになるのだ。

キャスティングから見えてくる、フェネル監督独自の「嵐が丘」像
今回、キャサリンとヒースクリフを演じるのは、マーゴット・ロビーとジェイコブ・エロルディだが、実は、エロルディの配役については疑問視する向きもなくはなかった。
ヒースクリフは、原作では「ジプシーの子」とか「小さなラスカー(インド周辺の船員の意味)」とか、その出自はぼかされながらも、非白人であることは十分想像可能である。だが、曖昧だったからこそ、これまで白人のスターで押し通され、ほぼ白人の俳優が演じてきた(メキシコを舞台にしたルイス・ブニュエル版や、日本を舞台にした吉田喜重版などを除いて)。そこに、黒人の無名の俳優を起用することで、初めて異議を申し立てたのが、11年版だった。
そんな、多様性を重んじる現代において、白人のエロルディで良いのか一部で議論にはなったが、フェネルは、自身が14歳で初めて『嵐が丘』を読んだ時のヒースクリフの挿絵が、たまたまエロルディに似ていたことから、このキャスティングを決めたという。

なるほど、エロルディは身長が2メートル近くもある、見上げるほどの大男で、さすがギレルモ・デル・トロの『フランケンシュタイン』の怪物役を務めただけのことはある。その圧倒的な存在感だけでも、ヒースクリフの持つアウトサイダー感というか、民俗学でいう「まれびと(稀人)」感のある存在なのだ。
では、フェネルがダイバーシティを重んじたキャスティングに対して後ろ向きかというと、決してそうではない。今回、重要な役どころとなるキャサリンの家政婦のネリーにはベトナム系のホン・チャウを。またヒースクリフの恋敵となるエドガーにはパキスタン系のシャザド・ラティフを当てるという攻めた姿勢を見せているほど。

そしてフェネルは、そうした配役含め、原作の骨子は残しながらも、そこに縛られない自由な発想から、極めて独創的な『嵐が丘』を作り上げたのだ。そもそも、この作品の原題に“Wuthering Heights”と引用符が付いていたことにお気づきだろうか。この引用符は、フェネルが、あくまで自分流の「嵐が丘」を作りますよ、との高らかな宣言だった。
フェネルは、エロルディのキャスティングの元になった14歳の時の読書体験を、そのまま映画に置き換えたのかもしれない。そこで強烈に記憶に残ったのは、やはりキャサリンとヒースクリフのロマンスで、そこに思春期特有の性的なファンタズムが合わさって、彼女なりの括弧付きの「嵐が丘」像が作られたのだ。
フェネルの『プロミシング・ヤング・ウーマン』や『Saltburn』を観たことのある人ならわかると思う。ポップできらびやかなシュガーコーティングがされながらも、ひとたびそれをめくると、裏には毒々しいものが渦巻いているようなあの感覚は、この『嵐が丘』にも満ち満ちている。

皮膚感覚に訴える描写と現代のポップスターによる挿入曲
今回は、その一つに、粘液性というものがあるだろう。カタツムリの出す粘液、ベトベトした卵の白身、汗や唾液などの体液。こうした表象が画面を覆う。それは、ある種の皮膚感覚に訴えてくるものだが、こうした描写は、そもそもゴシック文学の一つの特徴だ。その代表作の一つでもある『嵐が丘』の視覚化として、決してピントがずれているわけではない。そうした皮膚感覚は、ムーア地方(湿地帯)特有のぬかるみを、映像と音で執拗に描写した11年版にも見られるものだった。
それにしても、ジャクリーヌ・デュランによる衣装、スージー・ディヴィーズによる美術は素晴らしい。19世紀というビクトリア朝の時代に依拠しながらも、フェネルの頭の中のビジョンを具現化するために、あえて現代性を加味したアレンジを施している。それは、音楽とて同じだ。

例えば、92年版なら、坂本龍一が、大河ロマンに相応しい格調の高い、美麗で壮大なスコアを書いている。それはそれで素晴らしいのだが、フェネル版は、何と現代のポップスター、チャーリー・XCXが挿入歌を担当しているのだ。それも、アルバム1枚分のボリュームで。フェネルは、『プロミシング・ヤング・ウーマン』でも、チャーリー・XCXの曲を取り上げていたが、ここでは完全なる書き下ろしだ。その化学反応やいかに、というところだが、これがフェネルのファンタズムにピタリとハマるのだ。
思えば、チャーリー・XCXの前作『ブラット』から生まれた派生語「ブラット・ガール」は、歴史上の反逆的な女性を意味し、フェミニズムとも接続している。『嵐が丘』のキャサリンも、ヒースクリフとエドガー、どちらも捨てることのできない、自らの欲望に忠実な(それが悲劇を生むのだが)女性だったことを考えると、彼女もまた「ブラット・ガール」だったとは言えないだろうか。
19世紀の古典『嵐が丘』は、21世紀の現在、フェネルやその他のアーティストたちによって、ここに見事にアップデートされ蘇ったのだ。