山中瑶子
本当に最高でした!これまでジョシュ監督が(ベニーと)手掛けてきた作品に関していえば、個人の狂気と社会の狂気が重なって見えるところが私は好きなんです。本作ではそれが、さらにエクストリームに突き進んでいくので、早く解放してくれという気持ちにもなりました(笑)。わたしの映画でも、極端な資本主義都市の出口のなさからくる若者の混乱を描いているのですが、逸脱した人間の過剰なエネルギーの引力で魅せていくということにシンパシーも感じました。本作で特に印象に残ったのは、“本当と嘘”の見分けがつかず、絶えず両者の間を揺らいでいること。例えば、マーティは嘘ばかりつくのに、本人はその瞬間瞬間で本当のことだと思っているようにも見えます。その曖昧さが人間らしくて素晴らしかったです。
ジョシュ・サフディ
わお、ありがとう。
山中
特に、最後でマーティは東京に向かい、エンドウと対決するわけですが、その試合は八百長なのか本気なのか区別がつきません。そのエンドウは実際の卓球選手である川口功人さんが、マーティと敵対するペン会社の社長ミルトンはケビン・オレアリー(“アメリカ版『マネーの虎』”こと『Shark Tank』に出演している企業家)が演じています。そういう人物を俳優と混ぜて起用する手法にも、“本当と嘘”の揺らぎが表れている。現実がその嘘にあとから追いついてしまう感じが、とてもアメリカ的だなと。
ジョシュ
確かに、私たちをめぐる現在の生活はフィクションのようだと思います。人生が台本通りに進んでいるように感じられることも少なくありません。インターネットが現実をリードしているからでしょう。まず言葉で作り出されたトレンドに、何らかの理由で私たちは従っているのです。
ところで、私はこの映画を、過去を再現した時代劇ではなく、1952年当時に撮影された現代映画だと考えています。最近亡くなったフレデリック・ワイズマンは、彼自身が手掛けたドキュメンタリーにおいて、現実をフィクションのように映し出せることを証明しました。A+B=CならC=A+Bと逆転できる。つまり、現実をフィクションのように見せられるなら、逆もまた然り。私はこの映画において、それを目指したのです。
その際、何より重要だったのが、キャスティングです。それぞれのキャラクターと本質的な部分で重なる演者を選び、映画と人生を一致させること。(本作主演の)ティモシー・シャラメであれ、演技初心者であれ、それは変わりません。
だからこそ、不愉快な企業植民地主義者であるミルトン・ロックウェルに、本物のビジネスマンであり、アメリカン・ドリームの体現者であるケビン・オレアリーをキャスティングする必要がありました。
あるいは、グウィネス・パルトロウが演じたケイは、映画界から引退した女優という設定です。グウィネス自身もまた、演技から長く遠ざかっていました。劇中、ケイが演劇の舞台に復帰するというシーンがあります。そのシーンはグウィネスの撮影初日に撮りましたが、これは監督として絶対に譲れませんでした。そうすれば、グウィネスが抱える久しぶりの演技への不安が、ケイのそれと重なり、スクリーンに生々しく刻まれると思ったからです。

“1952年の日本人”をいかに演出したのか?
山中
それをまざまざと感じました。キャスティングの話でもう少しお聞きしたいです。とにかくただずっと見ていられる“いい顔”の役者がたくさん登場しますが、中でも私が驚いたのは、マーティとエンドウが東京で試合をするクライマックス。何百人もの日本人エキストラが観客として出演していますが、まったく知らない人たちでありながら、全員が1952年当時を生きているように見える。どうやって演出したのでしょうか?
ジョシュ
日本で撮影できることが決まったとき、エキストラに関してもアメリカと同じ方法でキャスティングしようと決意しました。だから、まずは当時の日本を徹底的にリサーチし、それに見合うユニークな顔の日本人を探しました。時代錯誤な顔がひとつでも紛れ込んでいたら、この映画は台無しになるからです。
次に、コスチュームデザイナーのミヤコ・ベリッツィに、数百人に及ぶエキストラ全員の衣装をデザインするよう依頼しました。彼女はプロダクションデザイナーのジャック・フィスクと共に、微に入り細を穿って研究し、20世紀半ばの雰囲気が残る上野公園に、当時の東京を再現してくれました。
そうやって、非常に具体的に作り込まれた環境に身を置くと、エキストラたちがその力によって変化してくるのです。例えば、私は観客席に配置した30人のアメリカ兵たちに無礼な振る舞いをするよう指示したのですが、その逆境に打ち勝つためでしょうか、日本の俳優やエキストラたちが一種の誇りを持ち始めたのです。
そこで私は、畳み掛けるように今この場所がどんな状況に置かれているのかを思い出してもらうべく、みんなに説明しました。映画の中では、原爆投下からわずか7年しか経っていません。アメリカの占領がようやく終了し始めた時期であり、皆さんはエンドウに戦後日本にとっての新概念、「個人の尊厳」という希望を見出しているのです、と。すると、彼らはエンドウに自然と心からの声援を送るようになったのです。
山中
凄まじいですね。日本人でもなく、当時はまだ生まれてすらいない監督が、あの群衆のわずかな反応のみで日本人の精神性みたいなものを捉え、映し出せた背景には、そういう演出があったのですね。
ジョシュ
そして戦後、民衆の中から英雄が誕生する。日本もアメリカと同じく、個人が世界を変える時代に突入したのです。
しかし、映画の終盤では、その個人主義の限界、アメリカン・ドリームの危険性を、マーティを通して目にすることになります。ひとつの夢にすべての希望を託したとしても、叶わなければ壊滅的な打撃を受けることになるのです。

アンチヒーローという概念は信じない
山中
さっき話した“本当と嘘”の話にも繋がるかもしれませんが、ひとつ気になったシーンがあるんです。それはエジプトに行ったマーティが、ピラミッドの一部を砕いてアメリカに持ち帰るところ。彼は「僕たちの先祖が作ったんだ」と言って母にプレゼントするのですが、あれはどういう意図だったんですか?
ジョシュ
マーティ、そして私自身もその一人であるところのユダヤ人コミュニティには、ひとつの根強い神話があります。ピラミッドは、エジプトで奴隷にされていたユダヤ人が建設したというのがそれ。あくまで神話です。なぜなら、ピラミッドが建てられたのは、ユダヤ人が奴隷になる前ですから。
しかし、マーティはこの神話を信じている。それは彼が自分という存在に、先祖代々伝わる神話の気配を感じているからでしょう。マーティは、ピラミッドの一部を持ち帰ることで、自分の過去から何かを取り戻していると信じているのです。そして、それを母親に手渡すことで、彼は「私は私たちを信じている」と伝えている。残念ながら、母親はそれを理解できないのですが。
山中
そういうことだったのですね。二人のやりとりから、何か他のシーンとは違う気迫を感じていました。ところで、監督の映画の主人公である男性たちは、必ず破滅的で間違った方向に進みます。だけどその姿は、輝いて見える。人々の抑圧された欲望を具現化しているからかもしれません。監督がそういう姿を肯定的にのみ描いているとは思いませんが、抗えないぐらい魅力的に映っています。そこで最後の質問なのですが、今後もそういう男性たちを描き続けるのですか?
ジョシュ
私はアンチヒーローという概念は信じていません。もし自分の作り出すキャラクターをアンチヒーローと見なしているなら、それは問題でしょう。彼らはいつだってヒーローでなければならないのです。よほどの皮肉屋でもなければ、自分が嫌いな人物の物語を語ることなんてできるはずがありません。
だから、マーティを含めて、自分が生み出したキャラクターがどんな欠点を抱えていようとも、私は彼らを愛しています。そして、マーティが自身の人生に対して抱く情熱と熱意が、人々を奮い立たせると信じてもいます。
その情熱と熱意は他の人物にも間違いなく確認できます。一瞬ではありますが、ケイからも感じ取れるでしょう。彼らは人々に行動するよう、何かを信じるよう鼓舞している。何かを信じ、楽観主義者であることは魅力的なことだと教えてくれるのです。
その上で、これからもこうしたキャラクターを描き続けるかと問われれば、わかりません。ただひとつ言えることは、私はこれからも常に自らのキャラクターと、彼らが生きる世界に執着し続けるだろうということ。それ以外については、次に何をしたいのか私にはまだわからないのです。
卓球で世界一になって人生一発逆転を夢見るマーティをめぐる、はちゃめちゃな悲喜劇。マーティを演じたティモシー・シャラメは、ゴールデングローブ2026でコメディー/ミュージカル部門主演男優賞に輝いた。その他の出演者に、グウィネス・パルトロウ、タイラー・オコンマ(タイラー・ザ・クリエイター)など。