録音は落ち着く。それは自分が世界の真ん中から外れて、外側に行けるからか。遠いところから自分を見つめて、僕の周りに立つ木々が薙ぎ倒されてそれがドミノみたいに地面を叩く音さえも、そしてそれが僕の頬を掠めようとも、波形として処理ができるからだ。倒れる木々は、僕を形作っていたはずの「記号」だ。
テレビ東京のプロデューサーであること。誰かの夫であること。30歳になる男であること。それらがバキバキと音を立てて折れていく(正確にいうと折れる、かもしれない)その音。録音ボタンを押している間だけ、僕はその破壊の当事者ではなく、ただの観測者になれる。
「彼は『正しい教師』のノルマをクリアした。あの教室で起きていたのは、差別に対する憤りじゃない。言語のすり替えだよ」僕は黙って話を聞いた。
「ソシュールっていう学者がね、言葉を二つの要素にわけた。シニフィアンとシニフィエ。例えば『リンゴ』という音や文字がシニフィアンで、それによって僕たちの頭に浮かぶ赤い果実の概念がシニフィエだ。この二つがセットになって初めて成立する」イスにもたれたまま先輩は話した。
「彼にとってあの二人は、『人権』や『多様性』を語るための、記号だ。崎田の頭にはあの二人の顔は浮かんでいないはずだ、まあどうでもいいんだけどね」自ら話を打ち切った。「本当にね」と付け加える。
先輩がなぜ怒っていたのか。それは本人が口にしていたことが主因ではないように見えた。もちろん副次的な理由ではあるだろうけど。それが実際なんなのか、わからなかった。それは先輩自身でもわかっていなかったのかもしれない。僕はアリクイを想起した。アリクイはよく怒っているけど、何に対する苛つきかは理解していない。ぐるぐるとその場を回る。「懐かしいですね、その話」先輩は目を細めてそう言った。
先輩は前と同じ喫茶店の同じ場所に座っていた。黒茶色の杖の持ち手を、古びたハンカチでゆっくりと拭いていた。その動作はまるで、傷口を消毒しているかのように丁寧で、非常に慣れた作業なのだろう。先輩は、紅茶を一口飲み、カップの縁を指でなぞった。
「別に崎田先生に腹が立ったというより、あの教室の中で、すべてがいちばん“きれいな形”に整えられてしまったことが嫌だったんだと思うんです。僕は当時、怒りというものを重んじていました。特別、怒りだけというわけでもないですがね。それぞれの人間がそれぞれの機微を持っているということが、とても重要なことに思えていました。機微の集合体が綺麗な形に整えられることへの忌避感というか」
冷めた紅茶の表面には、窓際の光がうすく伸びていた。喫茶店の奥の席は、昼過ぎなのに、すでに夕方みたいな色をしている。名古屋の喫茶店は、東京よりも時間が濁り、引き延ばされる。視界の端にはひどく汚れたSUBARUのジャンバーを羽織った小さな老人がいる。TOYOTAではなくSUBARU。SDGsバッジはつけていない。壁にかかったメニュー表の端が反っていて、コーヒーの染みみたいな影がその下にできていた。店員が遠くでグラスを拭いている。布がガラスをこする乾いた音。

「きれいな形」
「今、日記ブームっていうじゃないですか?いろんな人の日記が商品になっています。それだけを売っている本屋もあるくらいに。エッセイもそうかもしれないけど。自分の生活を書く。自分の機微を書く。今日食べたもの、会った人、ちょっと嫌だったこと、ちょっと嬉しかったこと。ああいうのって、一見すると機微を守る行為に見えるんです。でも、実際は逆のことも起こる。もちろん、書くことそれ自体が悪いとか、そういう話ではないです。ただ、怒りとか、悲しみとか、嫉妬とか、そういうものって、本来はもっと不格好だと思うんです。粘っていて、輪郭がはっきりしなくて、自分でも触りたくないところがある。なのに書くと、そこに言葉がついて、理由がついて、因果関係がつく。そうすると、急に“読めるもの”になるでしょう」と先輩は言った。少しだけ目をつぶる。僕は水野さんとの話をした。そしてどうすればいいか迷っている、と。
僕は水野さんとの話をした。
会議室の窓のこと。開かない窓の向こうで、白く溶けていた冬の景色のこと。彼女の指の細さ。菱形の指輪。SALOMONのスニーカーの爪先に、情けなさそうにめくれたテープが貼られていたこと。企画書に「完璧な真実を与えないことこそが、本連載の唯一の約束事になる」と書かれていたこと。離婚の話。洗面所で歯を磨く夫を見て、急に知らない人に見えたこと。冷蔵庫のキャベツの断面が、たった一日で、取り返しのつかない黒さになっていたこと。黒い膜。指に残るぬめり。夫に見せてはいけない、と思ったこと。
そういうことを、順番は少し前後したかもしれないが、ひととおり話した。僕の感想なのか、少しずつ曖昧になっていった。主観と俯瞰を往復し、その中には僕自身の懐疑心も混ざり、水野さんへの愛着のようなものも混ざった。誰かの話を要約するとき、僕はいつもそうなる。自覚があるかどうかもわからず。そして話しながら、水野さんのことを人間として好意的に捉えていることに気づく。
先輩は途中で一度も遮らなかった。遮らず、ただ、聞いていた。話されているという感じもした。僕の口から出る言葉が、卓上にひとつずつ並べられて、それがあとで、彼の中で別の順番に組み替えられるのだろうと、そんな気がした。
「なんか問診を受けているみたいな気持ちになりました」
「患者の話を聞くときもこうしています」先輩は少しはにかむようにそう言った。はにかむ、という表現は正確ではないかもしれない。いわゆる照れや愛想の成分があまりない。口元がわずかに緩んだだけだ。でも、そのわずかさがかえって、僕には、はにかみに見えた。人の表情というのは、見る側の都合でかなり自由に(勝手に)解釈されているのだろうと思う。
「患者さんは、自分のことを話しているつもりでも、結局、自分で読める形にして話しますから」
「読める形」
「はい。自分でも読めるし、他人にも読ませられる形」話が本線に戻ってきた。