大森時生『記憶の遺影』#12:仮想空間について。

本当も嘘も、演出も偶然も、溶け合って綯い交ぜになって、自分にとっての「リアル」になっていく。──近年のホラーブームを牽引するテレビ東京プロデューサー・大森時生による「現実」と「虚構」の不可分な関係性、そして曖昧な記憶について綴るエッセイ。

text: Tokio Omori / photo: Masumi Ishida

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新幹線の窓の外を、冬の景色が高速で後方へ飛び去っていく。富士山が見えるはずの窓側に座っていたが、視界に映るそれはレゴブロックみたいな景色だ。イヤホンから流れる《猫 シ Corp.》の「Lofi」の音が、現実の走行音と混ざり合って溶け合い揺れ続けている。

チリバーブがかかった、かつての消費社会の残骸のようなメロディ。社会学者はよく「消費社会の風刺」だと称するけど、それが的を射ているのかどうかはよくわからない。先輩はよく、この手の音楽を「幽霊ミュージック」と呼んでいた。幽霊みたいな存在の音楽。もしくは幽霊が聞いているであろう音楽。どちらでもいい。

手の影の写真

「大森、この音さ、誰の記憶にもない場所のBGMなんだよ」

埃っぽいカビの匂いと、松脂の甘ったるい匂いが混ざったあの空間で、先輩はそう言った。先輩が持っているWindows PCの画面には、ヤシの木が揺れていた。ビットレートが極めて低い映像は、青・赤・黄・緑の正方形が蠢いているように見えた。

ふと先輩がスキーをすることはもう叶わないのだと思い至る。当時から一度も一緒に行ったことはなかったけど、何か決定的な事柄を奪われてしまった感覚がある。杖が示すものは。

トンネルに入り、窓が鏡のように僕の顔を映し出す。疲れが溜まった、30歳の男の顔。青年にも(もちろん子どもにも)ちゃんとした大人にも見えない不気味な顔だ。自分が30になるなんて、あの部室にいるころには信じられなかった。でもそのころから時間はシームレスに続き、ここに至る。

先輩は理路整然としていて、基本的に感情を表に出すことはなかった。医学部に進学して、その後精神科を選択したと聞いた時も妙に腑に落ちた。やっぱり本人のキャラクターに合った仕事に就くものだな、と思った。先輩が怒っているのを目にしたのは一度だけだ。

新幹線の車内販売はなくなり、異常な硬さだったスジャータのアイスもなくなった。連結部に吸い込まれ消えていく乗務員を想像する。目をつぶる。洗面台の茶色い液体。それも一緒に消えていますように。

先輩が怒った日はよく覚えている。9月1日だ。夏休みが終わり、2学期が始まった初日だった。9月1日の、あの窒息しそうな午後の教室。筐体こそ清潔感あふれる洗練された白色なのに、全く頼りにならないクーラー。窓を開けると校庭の砂埃が舞い上がった。

クラスの中心をある話題が席巻していた。男子生徒2人がセックスをしたという。その様子を見届けたというものたちが大きな声で話していた。その声は、湿った熱気と一緒に教室の床を這い回り、天井を回り、窓外にまで出ていた。

「見たんだよ、本当に」「みんなで泊まった時に酒飲んでたら始まっちゃったんだよ」「音がしたんだって、生々しいやつ、部屋の外からも丸聞こえでやばすぎた」語る彼らは誇らしそうだった。

その男子生徒二人の名前は、すでに記号のように扱われていた。行為の輪郭だけがはっきりしていって、彼らの詳細は薄れていくようだった。

僕は彼らを頭に浮かべようとしたが、坊主頭と紫色の野球部指定の(とても野球が弱い学校で、30年間一度も一回戦を突破したことないということがよく語り草になっていた)濃い紫色のジャージのことしか思い出せなかった。後ろの子どもが金切り声を上げる。

後ろの子どもの金切り声は、細い針のように僕の耳の奥を刺した。声は一度で終わらず、細く長く引き延ばされた。うるさい。許せる子どもの声と耐え難い子どもの声、何が違うのだろう。

教室で華麗にパス回しされる「セックス」という言葉は、誰かが口にするたびにその形を変えていた。最初は驚き、それから嫌悪、好奇、そして最後にはただの「面白い音」として。思春期にとって、セックスは音だけでも十二分に面白がれるものだった。

しかし、その喧騒は、数学教師の崎田によって終わりを迎えた。

崎田は大学院を卒業したばかりの若い教師で、生徒を懐柔するのがうまかった。クラスのカーストを正確に割り出し、抑えるべきポイントを即座に把握した。この生徒を軽んじることでクラスの調和を生み出すということをすぐに理解できてしまうタイプの教師だった。端的にいって、一番嫌いなタイプだった。

クラスの一部の生徒はわかりやすく懐いていて、その者たちのことを僕は見下していた。こういうタイプが搾取されて生きていくのだろう、と思っていた。

「皆さん、今、自分が何について喋っているか、自覚がありますか」

声はいつも通り低く、ただ明瞭に教室の端まで届いた。そしてクラスの中心で声を張り上げていた生徒たちをまっすぐ見据えた。崎田はリムが極端に細いヴィンテージのメタルフレーム眼鏡をかけていて、ジャケットも仕立てが良いと一目でわかるものを羽織っていた。教師には珍しい身なりへのこだわりがあるタイプだった。

「君たちが今、面白おかしく弄んでいるのは、他人のプライバシーであり、尊厳であり、そして基本的人権です。彼らが誰を好きになり、誰とどういった時間を過ごすか。それは彼ら自身のものであって、クラスメイトである君たちに口を出す権利も、ましてやジャッジする権利も一ミリだってない。

いいですか?当たり前のことですが、再度確認します。性的指向を揶揄の対象にすることは、そういった笑いとして認められることではなく、明確な差別です。君たちは彼らが男性同士だから、自分たちに馴染みが薄いという理由だけで、彼らを異常性があるコンテンツと捉える。真の意味で異常性があり、唾棄すべきなのは、他人のセクシュアリティを土足で踏みにじり、消費しても構わないと思い込んでいる君たちの特権意識のほうだ。

しかも私が腹立たしいのは、本心から差別しているというよりも、誰かのアイデンティティを記号化して暇つぶしとして行っているだけにも見えます。君たちは自分たちがどれほど残酷な暴力を振るっているか、考えたことがありますか。君たちの一言一言が、いかに見過ごせないものか。君たちが生きている、もしくはこれから生きていく社会は、多様な価値観が共存する場所です。しかし今は共存していないかもしれない。それを若い世代の君たちが刷新していくべきです。それを再生産するような行動に、がっかりしました。私はこの差別を、断じて許容しません」

崎田の言葉は熱を帯びたまま教室の空気に溶け、僕らの耳には届かなかった。さっきまでのセックスムーヴメントは嘘みたいで、今はただ、各々が自分の机の上の消しゴムのカスを熱心に丸めたり、筆箱のファスナーの具合を確かめたりしていた。

部室でこのことを先輩に伝えた。ヤシの木はカクカクと動く。僕が崎田について話し終えても、先輩はしばらくの間、画面の青い光を顔に受けたまま動かなかった。

「崎田は、すごく怒っていました。正しすぎて何も言葉が意味を持たなくて」

先輩は「ふうん」と言っただけで、カチカチとパソコンをいじり、《仮想夢プラザ》の「水中夢」。リバーブをかました無責任な音。澱のように残る音。

「普通教師が怒った後は盛り上がるけど、それは盛り上がりようがないタイプのもので」

「崎田の言ってることは正しいね」

正しい、という言い方が出てくるのが意外だった。

「崎田、その時、ちゃんとその二人の顔を見てた?」

「いえ、クラスは違うので、いなかったです」

「大森、ソシュールって知ってるか」

不意に投げかけられたその言葉は、30歳になった僕の耳の奥、鼓膜のすぐ手前にいる。気圧の変化に鼓膜が空気に押される。「パキッパキッ」乾いた音が響く。耳にAirPodsを入れる。トンネルを抜けた。僕は妻との会話を再生する。録音アプリの波形が、海藻みたいに揺れる。

「修理するには大家の許可取んないといけないんだって、勝手に直しちゃいけないものなんだって、賃貸って。初めて知った」

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