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『生まれた時からアルデンテ』から10年。平野紗季子が出合った、やさしく、さみしく、愛しい味

フードエッセイスト・平野紗季子さんの10年に及ぶ食体験を収めた新作エッセイ集『ショートケーキは背中から』が刊行された。「しあわせな味、やさしい味、しんどい味、さみしい味。そのどれもが私を成す愛しい味でした」と振り返る平野さん。どんな味に出合い、何を感じてきたのでしょうか?

photo: Mikako Kozai / text: Neo Iida / edit: Takuro Shii

新しい味が私を追い越していく


平野紗季子さんの新作エッセイ集『ショートケーキは背中から』(新潮社)が8月29日に刊行された。2014年発表のデビュー作『生まれた時からアルデンテ』から10年。様々な雑誌やウェブメディアに寄稿した長文エッセイなど、書き下ろし原稿を数多く収録している、充実の一冊だ。

なかでも印象的なのが、2部にわたって展開される「言いたい放題 食べたい放題 ごはん 100 点ノート」。国内外を問わず、様々な食体験を綴った全100点のごはんにまつわるコラムが詰め込まれている。写真や挿絵はなくテキストのみ。平野さんの文章をしみじみ味わえる。

「子供の頃から食べ物日記をずっとつけ続けてきたので、仕事ではないメモ書きも大量にあって。それらをまとめ直しつつ、寄稿や書き下ろしコラムも入れました。絶対に文字だけにしたかったわけじゃなくて、途中まで写真を入れる可能性も残してはいたんです。でも、ラジオの『味な副音声』を始めたことで、言葉だけでも美味しさは伝わる、という実感があったので、テキストだけでも伝えられるんじゃないかなと。文字の先にどんな食の世界が広がっているのか、読み手の方に想像していただくのもいいかなと思って」

書籍『ショートケーキは背中から』を持つ平野紗季子
『ショートケーキは背中から』。装丁を手がけたのは、デザイナーの大島依提亜さんだ。

書籍のタイトルにもなっている『ショートケーキは背中から』は、本作に収録されている同タイトルのエッセイから取ったもの。ショートケーキを先端からではなく、背中から食べるのが好きだという平野さん。

「見方、食べ方ひとつで味はいかようにも変わっていくんだっていうことを思っています。1回こうだって食べ方を発見しても、新しい味が私を追い越していくから、それを私は追い続けたい。自分はこうなんだって決めつけすぎずに、あらゆる可能性に開かれていたいな、という気持ちも込めて、このタイトルにしました」

食の光と影、言葉にすることの責任

『アルデンテ』を上梓したとき、平野さんは会社員だった。本業の傍ら各地に出向き、フードエッセイストとしての道を歩み出したばかりだった。それから10年間、雑誌やラジオをはじめ、リアルの場でも食の仕事に携わり、もちろんプライベートでも多くの店を訪ねてきた。行き先はガストロノミーレストランから喫茶店まで。店主の話を丹念に聞き、熱心に食べた体験が、この本には詰まっている。

「『アルデンテ』から10年という時間の経過は、自ずと意識した部分かなと思います。あの頃はもう食の輝きの乱反射の中で、ただ眩しく世界を見ている、という感覚がすごく強かったんです。でも食べることに向き合った10年を経て、光があるということは影もあるし、影があるから立体に見える。そんな食の多面性をすごく感じるようになりました」

ごはんを食べる平野紗季子
取材は新潮社の社員食堂にて。“ショートケーキ”ではなく、この日の食堂のメニュー、肉じゃが、ひじき、焼き鮭を食べながら。

独自の表現力や力強い筆致は以前から変わらないようにも思えるが、平野さん曰く「かなり変わったと思います」。

「本当に『アルデンテ』のときは尖り過ぎていて(笑)。言い切っちゃう残酷さみたいなものがすごかった……(笑)。とはいえそれは、あのときしか言えなかったことだし、あの時代だから出せたものでもあるとは思います。というと時代のせい、みたいになってしまうけど、社会が変わったから今は書き方を気をつけなきゃ、ということでもないんです。

私自身、この10年でいろんな食体験を経て、いろんな気付きがあったんですよね。ただただ食をエンタメとして楽しむというより、店に行くというのは、その店主が築き上げてきた人生にお邪魔しているんだ、という感覚になったのは大きいです。本当は気軽に立ち入っていい人生なんてないはずなのに、お邪魔して話を聞いて、言葉にする。それってものすごく責任を伴う行為だなと実感して。そういう気付きがあるだけで、お店との関わり方って変わるじゃないですか。その集積が書き方を変えたような気がします」

素材や味付けといった料理のディテールはもちろん、平野さんが見せてくれるのは味のその先だ。「トーストに溶けていたのは」というエッセイでは、神戸にある〈思いつき〉という喫茶店での出来事が描かれている。

「おばあちゃん4姉妹が営むお店なんですけど、伺ったときにトーストを焼いてくれて、バターを塗りながら昔話をしてくれたんです。その時に、130円のトーストは、ただのトーストではなく、彼女たちが歩んできた人生の一部であると気付いて。どんなお店の人も、みんな自分なりの人生を抱えながら商いをしている。自分はそれを全力で受け取らなくてはならないと思いました」

喜びだけの人生なんて、味気ない

おいしいものを食べて、おいしいと感じることだけが食の体験ではないと、平野さんの文章を読むとハッとする。食を通じた体験は、人生を豊かにしてくれる。巻頭に収録しているエッセイ「会社員の味」には、会社員時代のしんどい日々の食生活が綴られる。「お菓子屋の日々」というエッセイでは、ポップアップにやってきた上京したての新社会人との交流が描かれている。日常の食のなかにあるささいな瞬間を、平野さんはさっとすくい取る。

「ショックな出来事があったとき、辛いときに食べた味ってかけがえがないと思うし、喜びだけの人生は味気ないかもしれない。会社員にならなかったら出合えなかった味もある。いろんな味がしてこそ豊かなんだな、と。先ほど話した光と影と多面性という話にも繋がりますけど、そういう味を知ることができてよかったなと思います」

ごはんを食べる平野紗季子

今ではレーズンサンドのブランド〈(NO) RAISIN SANDWICH〉を立ち上げ、自身が作り手でもある平野さん。その経験が執筆に及ぼした影響はあるのだろうか。

「自分もお菓子屋さんを立ち上げたことで、経営というものを初めて経験して、一日一日の営業や、自分が占有した一席の重み、みたいなことをすごく考えるようになりました。お店側がどれだけの想いや事情や覚悟を抱えながら日々お客様を迎えているのか、実感を伴ってわかるようになったんです。

みんないろんなできごとを抱えながら、それでも笑顔で今日も店を開けている。そしてお客さん一人一人を幸せにして帰そう、と全力を尽くしている。その姿勢へのリスペクトがグッと増しました」

読むうちに、感覚が解きほぐされるような感覚になる。もっと自由に、自分なりの感覚で食と向き合っていいんだと健やかな気持ちになれる一冊だ。

「食に対しては誰もが保守的な側面を持っていると思いますし、私も頑なに分かり合えない食べ物もあります。でも、それも暫定的な嗜好だとは思っていて、明日にはまた違った味わいに出合えるかもしれない。私は食べることの自由さにこそ目を向けたいし、ショートケーキひとつとっても新しい発見がある。この本が、そういう食との向き合い方を解きほぐすきっかけになったらいいなって思います」

書籍『ショートケーキは背中から』を持つ平野紗季子