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村上小説を音楽で読む。大谷能生×栗原裕一郎×佐々木敦 Vol.1

音楽がなければ物語はない。村上作品ではポップスもジャズもクラシックも、単なるムード作りの小道具にあらず。それは物語の複雑な時制や展開を助け、作品を先へと導く大切な指針として使われる。村上小説にまつわる著書もある3人が、物語と音楽の関係を解読。一度読んだあの本も、音楽を道しるべに読み直したくなるはず。

Edit&text: Masae Wako

ポップスとクラシック

60年代、あるいは異界
ここではない世界へ導く音楽について

村上小説に流れる音楽が、実はどんな意味を持って選ばれ、どんな役目を果たしているのか。それを知ると描かれた世界が違って見えてくるかも?まずはデビュー作から検証。

大谷能生

1979年の『風の歌を聴け』から話しましょうか。

佐々木敦

僕は、村上さんが当時30歳だったってことが重要だと思ってます。小説では村上さんと同じ年齢の“僕”が、8年前の話をする。だから本が出たのは79年だけど、描かれているのは70年。気分としては60年代の終わりですね。

一昔前の話をしているにもかかわらず、とても新しい文学の出現として受け取られた。そこにはポップスの使われ方が大きく影響していると思います。

栗原裕一郎

ビーチ・ボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」やボブ・ディランの「ナッシュヴィル・スカイライン」。村上さんにとってのアイドルが出てきますね。

大谷

冒頭にデレク・ハートフィールドという架空の小説家を出して、寓話的な体裁で書かれてるでしょう。でも、そこにちりばめられたポップスは、めちゃくちゃリアルなんです。

ボブ・ディランの69年のアルバム曲や、ジョニ・ミッチェルがウッドストックのことを歌った70年の曲。寓話の周辺に、具体的な日付や風景のイメージを持った音楽を配置して、細部の描写にリアリティを与えている。すごくテクニカル。

佐々木

ビーチ・ボーイズも70年だとオンタイムで人気だった?

大谷

その頃はすでに低調期だと思われてましたね。しかも選ばれている「カリフォルニア・ガールズ」は、彼らの代表曲って感じじゃないし。

佐々木

じゃあ物語の中の時代でも、みんなが聴いてた曲ではないんだ。

大谷

「カリフォルニア・ガールズ」は65年の曲。小説では「5年前に聴いてた曲がラジオで流れる」という設定です。
79年に書かれた小説の舞台が70年で、さらに5年前の曲がかかる……というふうに時代の層が重なっていて、「遠い遠い西海岸」という感じがうまく表れてる。

栗原

村上さんは84年に『小説新潮 臨時増刊号』への寄稿で、ビーチ・ボーイズや「カリフォルニア・ガールズ」のことを「抗うことができないほどイノセントで美しく」「我々とはまったく違った世界に住んで」いて、「そこに存在する唯一の価値基準」って書いてる。青春を過ごした60年代が、揺るぎない価値としてあることがわかります。

佐々木

それに比べると、83年が舞台の『ダンス・ダンス・ダンス』の80年代の曲の扱いがなんとも……。

栗原

マイケル・ジャクソンにホール&オーツ、「想像力の欠如したデュラン・デュラン」って。

大谷

でもこのラインナップ、すごく正確。イメージで書いてるのではなく、ちゃんと83年春にラジオでかかってた“つまらない曲”を並べてる。

栗原

『風の歌〜』からの初期作品群は、60年代的価値観が摩滅していく70年代を描いてたわけだけど、その価値観が完全に失われた現在=80年代というコントラストが打ち出されている。この後は小説におけるポップスの扱いが薄くなりますね。

時代の証しとなるポップス

「チッチッチ、駄目だよ、そりゃ。ラジオを聴かなきゃ駄目さ。本を読んだって孤独になるだけさ。そうだろ?」(略)

「実はね、君にリクエスト曲をプレゼントした女の子が……ムッ……いるわけなんだ。誰だかわかるかい?」

「いいえ。」

「リクエスト曲はビーチ・ボーイズの〈カリフォルニア・ガールズ〉、なつかしい曲だね。どうだい、これで見当はついた?」

『風の歌を聴け』

彼女の隣に置かれた巨大なサンヨーのラジオ・カセットからはエリック・クラプトンの新曲が流れていた。(略)

マイケル・ジャクソンの唄が清潔な疫病のように世界を覆っていた。それよりは幾分凡庸なホール&オーツも自らの道を切り開くべく健闘していた。

想像力の欠如したデュラン・デュラン、ある種の輝きを有しながらもそれを普遍化する能力が幾分不足した(不足していると僕には思える)ジョー・ジャクソン、どう考えても先のないプリテンダーズ、いつも中立的苦笑を呼び起こすスーパー・トランプとカーズ……
その他数知れぬポップ・シンガーとポップ・ソング。

『ダンス・ダンス・ダンス』下

クラシックが流れると
小説世界が揺らぐ

大谷

『ねじまき鳥クロニクル』くらいからクラシックが増えて、時代性をスタンプする曲というより小説全体を覆うテーマ曲として使われる。『騎士団長殺し』でモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」が流れるとか。

佐々木

『ねじまき鳥~』の冒頭でロッシーニの「泥棒かささぎ序曲」を口笛で吹くと、知らない女から唐突に電話がかかってくる、とかね。

栗原

村上小説には二重世界を行き来する物語が多いけど、クラシックは“異界”への入口に使われてます。

大谷

今いる世界が揺らぐ前の、予兆として鳴らされるんですよね。

栗原

『1Q84』では、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」が何度も演奏されるでしょ。冒頭のカーラジオで流れる演奏以降、10回以上。小澤征爾のレコードをかけたり殺しの場面で脳内に流れたり、主人公の天吾がティンパニで叩くのもあった。

大谷

何度も何度もテーマソングみたいに繰り返すことで、そのつど読者の意識を、天吾やもう一人の主人公の青豆に引き戻してるんですよね。小説における役割をちょっとずつ変えて、変奏曲みたいに流れてくる。

佐々木

映画だと、怖いシーンに合わせてテーマ曲も怖いアレンジにして流す。そういう感じなのかな。

栗原

例えば青豆が買うCDにはジョージ・セルが指揮するクリーヴランド・オーケストラが選ばれてます。

大谷

すごく無機質な演奏なんだよね。で、青豆は家でそれ聴きながら「過激」で「システマチックな」ストレッチをするの。

栗原

クラシックは同じ曲でも誰が演奏しているかが重要。それを効果的に使い分けてるのか。

佐々木

そこがポップスとの違いですね。ポップスは自分で演奏して録音するから、その音源が正解。演者の違いでどうこういうことはない。

大谷

ビートルズはビートルズの録音物が聖典だけど、クラシックはベートーヴェンの作品といっても残ってるのは楽譜。本人の演奏が残ってるわけじゃない。複数の演者によるバリエーションがあること自体が正解なのがクラシックで、それが二重世界の物語に使われるのは面白いな。

栗原

そうですね。初期作品は過去と現在の二層構造。固有性のあるポップスをスタンプすることで、現在から見た「寓話としての過去」をリアルにしてる。
一方最近の、現前の世界と異界という二重構造が描かれる大作では、正解が複数存在する多元世界的なクラシックが使われてる。音楽の機能が変わっていくんですね。

異界へ導くクラシック

免色がリモート・コントロールを使って、程よい小さな音で音楽を流した。聞き覚えのあるシューベルトの弦楽四重奏曲だった。
作品D八〇四。

そのスピーカーから出てくるのはクリアで粒立ちの良い、洗練された上品な音だった。雨田具彦の家のスピーカーから出てくる素朴で飾りのない音に比べると、違う音楽のようにさえ思える。
ふと気がつくと、部屋の中に騎士団長がいた。

『騎士団長殺し』第1部

彼女はとくにクラシック音楽のファンではない。ヤナーチェックについての個人的な思い出があるわけでもない。
なのにその音楽の冒頭の一節を聴いた瞬間から、彼女の頭にいろんな知識が反射的に浮かんできたのだ。
開いた窓から一群の鳥が部屋に飛び込んでくるみたいに。
そしてまた、その音楽は青豆に、ねじれに似た奇妙な感覚をもたらした。
(略)

運転手は言葉を選びながら言った。「つまりですね、言うなればこれから普通ではないことをなさるわけです。そうですよね?(略)」

「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。
私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」

『1Q84』BOOK1