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伊東四朗

井上さんがいなかったら、僕らは潰れてたかもな。|伊東四朗

 浅草でコメディアンをやって、日劇に行くのが一種のステータスでした。ですから一番嬉しかったのは日劇に出られた時。今は亡き初代三平さんに引っ張られてね。その後、日劇に随分出してもらえるようになりました。劇団ではみんな昼間の芝居が終わると夜はキャバレーでコント。戸塚睦夫と石井均さんがコンビで夜の仕事をしていて。ところが劇団が大きくなって、石井座長が夜の仕事はしないと。戸塚が困って、隣の劇場の三波伸介に

時給30円のやつが、正社員を断ったのは初めてだって。|伊東四朗

 学校でバレーボール部を一緒に作った松野ってやつに文才があって、一緒に台本を作ろうとクラス内演劇部を始めました。演劇は好きでしたが、自分がやるのは学校だけで、プロになろうとは思わなかったですね。当時は一般家庭と芸能界にはすごく距離があって。テレビもなく映画と舞台だけですから。それで高校卒業する時に就職試験を受けて。みんなは受かって、私だけが残っちゃった。挫折でしたね。一社でも受かっていたら、今、定

誰にも負けないってほどの、河童になりました。|伊東四朗

 東京者というだけでいじめの対象になるんですけどね、ある時、掛川で3年に1回だかの大祭りがあって。私は自称お祭り男で大活躍したんです、太鼓を叩いて踊って。そしたら一気に認めてくれましたよ。お祭りって大したもんだなと。あと、泳げなくて馬鹿にされましてね。東京の学校にもプールはありましたけど、火災の時の用水池になっていて泳ぐなんてもんじゃなくて。向こうの連中は川はあるし、みんな泳げる。悔しくて悔しくて

父親は、働きたくなきゃ働かない、わがままな人でした。|伊東四朗

 生まれは東京の台東区、昔で言うと下谷区です。この間ふと急に思い立って、地下鉄に乗って上野広小路で降りて、御徒町公園から自分の生まれた場所を回ったんです。佐竹商店街を通って、竹町公園で女房に作ってもらったおむすびを食べて、竹町小学校(現在の平成小学校)を横目に見て、空襲で逃げ場だった西町を通って、久しぶりに西郷さんに会って、全1万1500歩(笑)。兄弟は5人で私は3男。みんな生まれたところが違うん

テーマ〈続々オリンピック〉

やつい ロンドンオリンピックのときはどうだったんですか? 僕、観ていないんですけど、なんかカッコよかったみたいで。
宮沢 ポール・マッカートニーが開会式で「ヘイ・ジュード」を歌ったんだけど、最初はテープで流そうと思ったらテープの調子が悪くて本人が生で歌ったっていう。
やつい そうだったんだ(笑)。
宮沢 『トレインスポッティング』とか流れてた。あんなドラッグ映画が。日本なら『冷たい熱帯魚』を流すよ