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内海桂子

独立国家ナイツ。

萩本欽一、ビートたけしらを輩出した昭和の薫り漂う芸人の街・浅草。ここをホームベースとするのは東京漫才の正統派といわれるナイツ。「君たちは浅草が向いてる」という当時の所属事務所社長の鶴の一声で内海桂子師匠に弟子入り。半ば「ギャグのつもり」もありつつ「女の子にワーキャー言われるんじゃないか」と行ったことも見たこともない浅草に足を踏み入れた。それから15年。今や浅草の顔となった2人を直撃すると……。

何もしなくなったら、死んでんのも一緒だからね。|内海桂子

 芸歴っていうと16歳でプロ漫才師になってもう75、76年。仕事も時代も変わりましたよ。了見が変わった。今子供に親が何か言ったり、先生が何か言ったりしても理屈だけなんですよ。本当に子供に子供のことをわからせたかったら、子供たくさん産んで、子供の中に放り込んどけばいいんですよ(笑)。わかるでしょ。ちっちゃい子がどうしてるか。そういうのをちゃんと見れば、自分の立場を自然とわきまえて気をつけようと思うは

学校はあまり行ってないけれど、私は勲章までもらえたの。|内海桂子

 昭和22(1947)年頃、浅草を通った時、女中さん募集の貼り紙を見て飛び込んだの。「よかったら夜来てみなさい」って。家に帰ってお召しの着物に替えて戻ったら、上が料亭、下がキャバレーなんです。だから上、下で稼いだんですよ(笑)。自分でもほんとにびっくりしましたよ。客のアメちゃんが、私のことを指名してね。「桂子いるか?」ってね。でもやっぱり根っからの漫才師だから、世の中落ち着いてきたら、いざまた誘わ

本当に、あの場所でよく生きていたなって思いましたよ。|内海桂子

 すぐには舞台に出られないから毎日やっているのを見ているんですよ。私を連れていった人は夫婦で漫才をやっていたんですが、奥さんのお腹が大きくなって、「あんたならできる」っていきなり舞台に出されたの。奥さんの漫才は「ハイハイ、ソウソウ」だけでつまらなかった。私は三味線を弾くし、ツッコミもやる。そしたら、「あの子いいね」って。16歳でした。演芸場から1ヵ月35円っていう月給が出て、それに夜になるとほかの

私の経験なんて今の方にどうやってもできないと思いますよ。|内海桂子

 生まれたのは銚子、親が駆け落ちしたんですよ。両方とも一廉の家系なんですよ。けれど、産んでしばらくしてから父が仕事で鶴見に行って、それで次の年が関東大震災でしょ? だから父の顔を見たことがないのよ。お袋は死ぬまでに3人くらい亭主を持っていたからその人たちは知っていますよ。変わるたびに名字が違いますから(笑)。駆け落ちして地元へ帰れないもんだから、お袋が1人で私を養って。やっと浅草の田中町にある実家