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江戸時代

【大山】「ホーボー」の2人、 大山の商店街を歩く。

江戸の五街道の一つ、中山道の江戸から1番目の「板橋宿」(現在の板橋区仲宿周辺)は、旅人たちで大きな賑わいを見せた宿場町。現在の大山駅から西へ延びる「ハッピーロード」はその中山道から分岐した(旧)川越街道に沿って自然発生的に生まれ、第二次大戦後に発展した商店街。周辺には富士山へ通じる富士街道、鎌倉へ通じる鎌倉街道なども交差しており、まさしくジャンクションとして人々が行き交ったエリアだった。

花道の歴史。

花道の起源を特定することは難しいが、もともとそこには宗教的な要素があったと考えられている。「まずは、太古の人々により、神が天から降りてくる“依代”として神前に供えられた花があります。次に仏教文化からの影響として、仏前に花びらを撒く“散華”がある。これがインドから中国を経て日本に伝わる頃になると、花瓶に入れられて供えられる“供華”となりました。この花と花瓶を合わせる、という文化は、その後の日本の花道

佐助の花鋏。

仁徳天皇陵の造営にあたり、堺には多くの労働者が集められ、彼らが使う鋤や鍬を作るための鍛冶職人も集まった。戦国の世には、刀や火縄銃などを作る一大生産地となり、大きな影響力を持つようになる。江戸時代になるとたばこの葉を刻むためのたばこ包丁が盛んに作られるようになり、幕府はこれに「堺極印」を付して専売としたため、堺は全国に刃物の街として知られるようになった。佐は、そんな堺で火縄銃作りを行う工房として始ま

個を超え、思わぬ場所へ連れ出す花。

「さあ、何でもお訊きになってください。何も期待していませんので。いわば幼稚園児みたいな身体の人に何か話しても、理解できないですからね。意味ないんですよ、申し訳ないですけれど」
 ははは、と爽やかに笑いつつ、「当代随一の花人」と呼ばれる人にそう促されれば、凡夫はひるんで立ち尽くすほかない。窮した揚げ句の愚問、の機先を制して「助け舟」が出された。

「多くの皆さんはおそらく、花というものの観点がわかっ

九代 長江惣吉

杭州で曜変天目の破片が見つかった、あるいは8Kで国宝の曜変天目を撮影する。そんな機会に必ず現場へ呼ばれるのが、長江惣吉さんだ。江戸時代には原料土の採掘を行い、明治以降は窯屋を営んできた家に生まれ、曜変天目の再現を追い求めた父、八代長江惣吉の死後、32歳の時に「やむを得ず」その志と研究を引き継ぐことになった。ただし、先代は研究資料を残しておらず、実のところ引き継げるものはほとんどないに等しかったとい

めくるめく、オトナの絵本。

絵巻とは、巻物になった絵本のようなもの。詞書(物語)とその場面の絵を交互に見て、物語の世界をあれこれ想像する。仏画が仏教の教えを伝えたように、絵巻は日本の教養を面白く伝えるツールだったのだ。いわば「合戦絵巻」は「マンガで覚える歴史」で、「説話絵巻」は「アニメで知る昔話」。右から左へとストーリーを途切れなく伝える構成は、ダイナミックな時空間の飛躍や、緩急つけた戯画的表現を生み、ゆえにアニメの原点とも

モノクローム好き。

日本の近代絵画は西洋からの刺激で発展したが、それ以前の絵に影響を及ぼしたのは中国の美術。鎌倉末期に禅宗とともに伝わった水墨画は、「簡素で地味だけど、わかる人にはわかるよね」というスノッブさで、禅に心酔する室町将軍家に愛された。理想の風景を表現した山水画、禅の悟りを絵で伝える禅画、俳人による文人画などが描かれたこの界隈で、最もリスペクトされたのは中国・南宋時代の画家、夏珪や牧谿。京都の相国寺からは、

極彩色の狂気が笑う サディスティック・シンドローム。|岩佐又兵衛

地獄絵から血みどろ絵まで、日本のサディスティックな絵画の中でも《山中常盤物語絵巻》はひときわS度が高い。惨殺シーンのぬめっとした血なまぐささに加え、画家が描きながら薄ら笑っているような、醒めたユーモアが感じられる。
 
岩佐又兵衛の壮絶人生は2歳の時に始まる。父である武将・荒木村重は信長への反逆を企て、自分は逃げたものの一族郎党皆殺し。妻子も六条河原で首を刎ねられた。唯一救出された又兵衛が、亡き母