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1934年

ジャンルの垣根を越え、常に挑戦し続ける作家・筒井康隆。

 現代文学の最高峰・筒井康隆の世界を紹介する初めての大規模展覧会が世田谷文学館で開催されている。1934年に大阪で生まれた筒井康隆は、60年に江戸川乱歩が編集する雑誌『宝石』に掲載された、「お助け」でデビューした。同年、SF同人誌『NULL』を発行。デビュー後は星新一、小松左京とともに「SF御三家」と呼ばれ人気を博した。彼ら3人は日本にSFを根づかせた、SF界の草分け的存在といえるだろう。その後、

『仁義なき戦い』を手がけた伝説の男と、実録映画の後継者が対面。

 北海道警察の現役刑事が、覚醒剤に溺れ、悪事の限りを尽くした驚愕の実話。『日本で一番悪い奴ら』は、そんな日本の警察史上最大の不祥事といわれる事件を、綾野剛主演で映画化したピカレスクロマンだ。
 前作『凶悪』に続き、再び実録映画を手がけた白石和彌監督が、この日やってきたのは京都。『仁義なき戦い』シリーズなど、映画史に残る実録映画を生み出した伝説のプロデューサー、日下部五朗を表敬訪問するためだ。
「日

舞台装置もイラストレーションと同じものだって気がするんです。|宇野亜喜良

 デザインセンターに設立から所属したのですが、そこに同じくいた横尾忠則と原田維夫と3人で共同事務所を作りました。イラストレーションの要素をうまくデザインして、あくまでもデザイナーとしての事務所を作るつもりでいたんですが、だんだん時代がイラストレーションが面白い時代になってきた。横尾忠則が『パンチ』の扉をやったりすると、その雑誌が格好良くなったり、イラストレーターが時代をイメージする、イラストレータ

「君の絵はセンチメンタルだ」って批判されましたね。|宇野亜喜良

 僕は学問が好きじゃなくて、高校でなんか絵を描くところがないかな? って。でも戦後すぐは美術科のある学校が少なくて、工芸学校の図案科にまあ絵描きの親類みたいな仕事だろうと思って行ったんですけどね。デザインの先生が教えてくれるんだけど、クラスの中に2人看板屋の息子がいて。学校の先生は文字やデザインをするときにカラス口で線を引いてその間を埋めて文字を書くんですけど、看板屋の息子はね、ゴシックも明朝も平

浮浪児から盗んだ鯛が、人生初めてのお頭付きでした。|宇野亜喜良

 僕は1934年に生まれて、名古屋の矢場町っていうところで母親が喫茶店をやっていて。父親は今風に言うとインテリアデザイナーで、室内装飾みたいなことをやっていました。父親は一度離婚していて、姉が2人、兄貴が2人いて、それから母親と結婚して僕と妹。あ、母親の方にまた、2人の姉の連れ子がいたりして、寄り合い所帯というんですか。僕は小学校のときに疎開をしまして、そこで6年生で終戦を迎え、12月くらいに名古

終戦、引き揚げ、日本での闘いが自分を支える大きな幹に。|宝田 明

仕事始めて3本目かな、「お前に今度主役をさせてあげる」、えーーー! 今まで「新人宝田明」と出ていたのが、一番右端の一番最初に書かれるんだ 真っ赤な台本にはカタカナでゴジラと書かれている。当時はゴジラって何ですか? という感じで。空想、長編、科学映画、今でいうサイエンスフィクションだよと。ゴジラは会社にとっても一種の賭けっていうかな? 日本は唯一の広島・長崎の被爆国家だし、昭和29(1954)年に第

守衛さんが背中を押してくれなかったら、今はないね。|宝田 明

 高校で演劇部に入ったんですが、学校に来る写真屋さんがいるじゃないですか、修学旅行とかで。その人に「宝田、東宝でニューフェイスを募集しているから受けてみないか」って誘われて。僕は大学受験のために一生懸命勉強してたんだけど、どうせ落ちると思っていたからね。そしたら、はがき一枚で「写真審査に合格したから一回、東宝に来てくれ」と。そのはがきを持って、渋谷から成城までバスに乗って、東宝撮影所前で降りた。み

ジャン・バルジャンかと思ったら俺の兄貴だったんだ。|宝田 明

 昭和22(1947)年に、ハルビン最後の引き揚げ団数百名としてやっと帰国というときに、僕のすぐ上の兄がソ連の強制使役へ行ったまま、ある日帰ってこなかった。周りの人たちに聞いても「帰ったんじゃないの?」って。それが1週間経ち、10日経ち、半年経ち、どこへ行ったかわからない。短冊みたいなものに「宝田まさお、我々は故郷に帰っているよ。新潟の村上だよ」と書いて、止まった駅でババッと貼って引き揚げた。道中

ソ連がどーんと満州に攻めてきて、明日の飯もなくなった。|宝田 明

 僕はね、父が朝鮮鉄道の技師だったので北朝鮮の清津で生を受けて、その後、満鉄に転勤となり満州で生活をしていました。昔は満鉄って言ったら国策会社として、肩で風を切るという感じでしたよ。色々なところを点々として終戦時は大都会ハルビンで、在満の小学校に通っていました。穀物も食料も満州は豊かだし、5つの大民族が相携えて、五族協和っていう四文字熟語が当時ありましてね。満鉄の社宅のすぐそばには中国人がたくさん