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Tokyo

MUNSELL

昨年10月にオープンした新店。タイルやスチール製の台に、青白い蛍光灯の光を受けて、極彩色の花が並んでいる。草月流の生け花を学び、師範の助手まで務めた経験を持つ、店主の梅澤秀さん。その後、いくつかの花屋で現場の仕事を学び、独立した。マットな黒いセロファンで包んだブーケは、花の個性と個性が響き合う強烈なインパクト。「あえて花と花を重ね、陰影で美しさを引き出す」など、生け花にも通じる立体構成が考え抜かれ

Forager

店内に並ぶのは、一般的な花束ならバラやガーベラの隣に添えられていそうな、控えめな花たち。野道が似合う草花や、マメ科や多肉植物の一種といったグリーンの延長のような花も多い。「こざっぱりとした女性にはこっちの方がきっと似合う。花って洋服のように似合う似合わないがあるから」と店主のchi-ko.さん。店主自ら“脇役劇場”と呼ぶラインナップから、存在感のあるブーケを生み出せるのは、大手花屋で長年培った技術

FUGA

外苑前のキラー通りに1994年から25年にわたって店を構える〈FUGA〉は、個性的な葉ものを用いた、モダンなブーケに定評がある。モンステラなどエキゾティックな植物と洋花を合わせ、都会的な世界観を打ち出したパイオニアでもあるが、一方で真紅のバラだけで組むラウンドブーケや、野花を交えたナチュラルなブーケも得意。約300種を誇る花やグリーンを組み合わせて、あらゆるオーダーに応えてくれる。毎年、産地への研

trèfle

「ほとんどのお客さんが、僕のことを見て驚きますね。え? 男性なんですか?って」。そう苦笑いしながら語るのは店主の木之下渉さん。フランス語でシロツメクサを意味する〈trèfle〉という名前も、宇田川町の静かな路地にひっそりと佇む店も、2つのライトだけが灯るこぢんまりとした空間も、どれも可憐な印象。ブーケの花も清楚で、包み方も清純派。「セロファンやサテンリボンは通常使いません。紙だけで全体を優しく守っ

故郷は日本だとは言えないし、その感覚は全くない。| なかにし礼

生まれは満州、牡丹江の造り酒屋です。兄弟は3人。満州時代というのは、こちら側が中国人の街に限られた日本人街地区を造って住んでいるわけですから、中国人がいないかっていうと、いるわけですね。ですから、そこを日本人が縦横無尽に駆け回って遊ぶなんてことはあり得ないわけです。危険と隣り合わせということでね。学校の行き帰りは中国人の付き人が付いていて、送り迎えをする。いわばよその国にいながら、自分の国だとは言

作家を目指したのは、「太平の逸民」に憧れたから。

 引き揚げで日本に帰還し、小樽と青森に移って、そして東京へ。居場所がなかったんです。小樽には父の実家がありましたが、父はハルビンの強制労働から病気で帰ってきて、すぐに亡くなりました。僕は満州で故郷を失い、父を失い、すべてを失った。息子を失った祖母は、嫁と孫が帰ってきても喜ばない。そして今度は、特攻隊の生き残りである兄が戦争から帰ってきて、小樽の家を質に入れて、ニシン漁に投資して失敗。家まで失いまし

可愛くて才能があると思って育ったみたい(笑)。|湯川れい子

生まれは東京の目黒です。駒沢公園がまだ日本で2番目に古いゴルフ場で、戦争が激しくなり草ぼうぼうの野原でした。父は海軍勤めで、先祖代々は山形県の米沢藩出身。上杉鷹山の教えは文武両道でしたが、小さな藩だったので海軍兵学校を目指す人が多かったようです。叔父たちもみんな海軍で少将や大将と言われる人たちでした。父は青島や上海の駐在武官を13年ほどやって、日本の本部勤務になったときに私が生まれました。だから私

占領政策で、昼間からチークダンスなんて可笑しいわ。|湯川れい子

戦死した兄の影響は大きいです。昭和18(1943)年の6月ですが、出征前に3日間泥まみれになって防空壕を掘ってくれて。その間中、口笛を吹いていて、メロディを覚えちゃったんです。父が突然亡くなり、兄も戦死。私と母は米沢に疎開して、終戦後目黒の焼け残った家に帰りました。私は体が弱くてよく熱を出していました。本が好きで熱が下がってくると少女小説とかハイネとかリルケの詩集を読むので、母に「ぶり返すから駄目

エルヴィスの背景が、私にはジャズと重なって見えました。|湯川れい子

コンボという喫茶店では、鼓膜が破れるような音量で音楽がかかっていました。お客さんはほとんど黒人の兵隊さん。「これが今、NYで盛んに台頭してきているジャズなんだ」って。即興演奏で譜面なんかない、黒人が自分のアイデンティティとして自己主張する音楽だと言われて。みんな目をつむりながら会話もなく聴いているんです。衝撃的でした。その中に早稲田の学生だった大橋巨泉さんや、まだ無名の渡辺貞夫さんとかがいらして、