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三浦雄一郎

陛下に「エベレストは曇ってました」としか言えなくて。|三浦雄一郎

メタボから普通の65歳の体形体調に戻ろう、そしてエベレストに登ろうと決心しました。ところが試しに藻岩山っていう531mの山に登ってみたら、途中でのびて動けない。登るまで5年あったんですが、これでエベレストどうなるんだって気が遠くなりましたよ。けれど僕のモットーは「これ以下はない」でしてね。朝起きると足首に1㎏ずつ重しをつけて、代々木公園を歩きました。1日8時間寝てたとしても、12〜13時間は起きて

余命を勝手に宣告されて、70までは無理だぞと。|三浦雄一郎

1962年に第2回世界プロスキー選手権がアメリカであって、アルバイト先の登山用具屋さんが、飛行機賃だけは出してやるからあとは向こうで稼げっていうんで、ヒッチハイクしながら大会に出ました。その年の世界ランキングで8位に入ったんですよ。けどもう30歳ですからね、次に人がやらないことをやろうとイタリアのスピードレースに出ました。東洋レーヨンへ出かけていって、世界で一番抵抗の少ない薄いユニフォームを作って

北大の試験はね、ご先祖が答えを描いてくれたんです(笑)。|三浦雄一郎

 津軽半島の崖をよじ登ったり、砂浜でごろ寝したり。で、海へ潜って魚、アワビ、野菜は拾って食べたり。夏休み中、ほぼ1ヵ月。これ、高校3年間と、北大入って家へ帰ると3年間。6年間も夏は一人ぼっちで津軽半島(笑)。弘前高校は青森県で1、2番の進学校だったんですよね。で、東大はちょっとだめだけれど、北大ならなんとかなるんじゃないかっていう連中が20人受験に行って。じゃあ俺もと。北海道の方がスキーもできると

雪山から帰ったら、気持ちと態度がデカくなりました。|三浦雄一郎

 生まれは青森県青森市で父親・敬三は当時営林署という山の役人をやってました。冬の八甲田に入ってはスキーと写真に熱中して、当時の山、スキーを好きな人たちに「八甲田の主」と全国的に知られていた。僕も3歳くらいから八甲田に連れていかれて、スキーを始めました。青森はちょうど『おしん』の頃で、冬になれば除雪も何もなしですから、馬が橇をひいて首の鈴をシャンシャン鳴らしながら家の前を通っていく、そんな時代です。