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満州

親が寝静まるのを待って、隠れて漫画を描いていました。| ちばてつや

ある晩、母がありったけのお米を炊いて、おにぎりを作っていました。私はリュックを渡されて、本当に必要なものだけ入れなさいと。印刷会社で裁断して余った紙をやれ紙といって、それに絵を描くのが好きだったので、いっぱい詰めました。あとは読みかけの本。そして夜中に逃げたんです。満州から日本に引き揚げる途中でも多くの人が亡くなりました。日本に戻るのに1年かかりましたが、一家揃って無事だったのは本当に運が良かった

終戦の日には爆竹が鳴って、外から歓声が聞こえました。|ちばてつや

 日本で生まれて数ヵ月後にはソウル経由で満州に渡りました。日本では父も母も主婦の友社で働いていて、社内結婚ですね。表現規制が始まって嫌だと思ったんですかね、それで満州へ。私は4人兄弟で、小さい頃の思い出はすべて満州です。満州の冬は表に出るだけで目や鼻や口の水分が凍るんですよ。一年の3分の2は寒くて、ほとんど家の中にいました。両親は本が好きで、家の中の壁という壁は本棚で、一番下の段には子供の本を置い

石原裕次郎さんは、僕の生涯の大恩人です。| なかにし礼

 昭和38(1963)年の夏の終わりに、新婚旅行で訪れた伊豆の下田で石原裕次郎さんと出会いました。彼は有名なスター、僕は一介の苦学生。それが向こうから声をかけてきた。指を差されて「君たちは新婚かい? 新婚カップルがたくさんいるから品評会をやってたんだ。君たちが一番かっこいいね」と。ビールをご馳走になって、僕がシャンソンの訳詩をしている苦学生だと知ると、「こりゃ、嫁さんを食わせていけるか心配だな。日

故郷は日本だとは言えないし、その感覚は全くない。| なかにし礼

生まれは満州、牡丹江の造り酒屋です。兄弟は3人。満州時代というのは、こちら側が中国人の街に限られた日本人街地区を造って住んでいるわけですから、中国人がいないかっていうと、いるわけですね。ですから、そこを日本人が縦横無尽に駆け回って遊ぶなんてことはあり得ないわけです。危険と隣り合わせということでね。学校の行き帰りは中国人の付き人が付いていて、送り迎えをする。いわばよその国にいながら、自分の国だとは言

作家を目指したのは、「太平の逸民」に憧れたから。

 引き揚げで日本に帰還し、小樽と青森に移って、そして東京へ。居場所がなかったんです。小樽には父の実家がありましたが、父はハルビンの強制労働から病気で帰ってきて、すぐに亡くなりました。僕は満州で故郷を失い、父を失い、すべてを失った。息子を失った祖母は、嫁と孫が帰ってきても喜ばない。そして今度は、特攻隊の生き残りである兄が戦争から帰ってきて、小樽の家を質に入れて、ニシン漁に投資して失敗。家まで失いまし

恆春3000啤酒博物館

 高雄で17年間、エンジニアとして働いていた鐘文清さんは、無類のビール好きが高じて一念発起。渡米して醸造やビジネスの勉強をした後、醸造のプロと組んで地ビールを造り始めた。銘柄はすべてこのエリアの地名や名所にちなみ、例えば、ピルスナータイプの「白砂」、クリームエールの「満州」、ホッピーラガーの「墾丁」などのラインナップが揃う。中でも、イギリス風の苦味が効いた「關山」は2017年度オーストラリアの国際

SPRING SCREAM

 4月5〜7日の3日間、今年でなんと24年目を迎えるインディーズロックフェスが開催予定。今回は場所を移動して、台湾小墾丁渡假村で開催。5つ以上のステージが現れ、国内外200組以上のバンドが参加、観客の数も3日間で延べ6000人を超える。この時期になると墾丁の街は大渋滞。近隣では便乗した課金制の類似イベントも行われるので、要注意。

本当に、あの場所でよく生きていたなって思いましたよ。|内海桂子

 すぐには舞台に出られないから毎日やっているのを見ているんですよ。私を連れていった人は夫婦で漫才をやっていたんですが、奥さんのお腹が大きくなって、「あんたならできる」っていきなり舞台に出されたの。奥さんの漫才は「ハイハイ、ソウソウ」だけでつまらなかった。私は三味線を弾くし、ツッコミもやる。そしたら、「あの子いいね」って。16歳でした。演芸場から1ヵ月35円っていう月給が出て、それに夜になるとほかの

チャイニーズガール、美的トラウマの波紋。

 自然引退したのか? と思われていたデイヴィッド・ボウイの一昨年の不意打ち的なアルバム・リリース(『ザ・ネクスト・デイ』)は嬉しい驚きでしたが、さらにリリース直前、リリース後と矢継ぎ早にネット配信されたPVにも驚かされました。特に「スターズ」における女優、ティルダ・スウィントンのあられもない胸はだけ演技に鬼気迫るものがあり、とんでもないものを見せられたと思わないでもなかったですが、彼女はポン・ジュ