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鎌倉

子供の頃は、誰でも小さい生き物が好きですよ。|養老孟司

 生まれは鎌倉です。母が2度目の結婚だったので父親違いの姉と兄がいました。父親は三菱商事に勤めていて、鎌倉に住んでいた理由は結核の療養。お袋は医者でした。お袋の家に親父が書生としていたんですよ。まあ、だいたいどうなったかわかるでしょ?(笑) だからお袋の方が親父より9つ年上なの。子供時代はまあ普通でしたよ。僕らの頃は近所のガキが一緒になって遊んでいた。地域ごとにグループがあって、うっかりほかのグル

進化する信楽のギャラリーで器探しの旅。

思い思いのスタイルを探したい、製陶所をリノベして開いたショップ。

グラフィックデザイナーとして活躍後、信楽へUターン。〈NOTA&design〉として、妻の佳世子さんとともに作品を発表してきた加藤駿介さん。「デザインに興味を持ったのも信楽だからこそ。いつまでもあり続けてほしい」との思いからショップを構えた。器からオリジナル、古道具までを揃えビジターにも地元にも双方向にスタイルを提案する場所に。

【大山】「ホーボー」の2人、 大山の商店街を歩く。

江戸の五街道の一つ、中山道の江戸から1番目の「板橋宿」(現在の板橋区仲宿周辺)は、旅人たちで大きな賑わいを見せた宿場町。現在の大山駅から西へ延びる「ハッピーロード」はその中山道から分岐した(旧)川越街道に沿って自然発生的に生まれ、第二次大戦後に発展した商店街。周辺には富士山へ通じる富士街道、鎌倉へ通じる鎌倉街道なども交差しており、まさしくジャンクションとして人々が行き交ったエリアだった。

親愛なるセルジオ・メンデスに、東京でモーニングコーヒーを!

コンピレーションの選曲や執筆など、ブラジル音楽に造詣の深い〈カフェ・ヴィヴモン・ディモンシュ〉の堀内隆志さん。長年憧れだったというセルジオ・メンデス御大が日本滞在中ということで念願の初対面。熱い思いを抱きながら、渾身のコーヒーを淹れることに。用意したのはブラジル・フルッタメルカドンというフルーティなコーヒー。目の前で豆を挽き、ドリップをしてインタビューが始まった。

徳川ミュージアム館長が語る 新しい関係を育てた、ファンとミュージアム。

関東大震災の時に被災した刀剣は、それまで簡素な木の箱に納めて、収蔵庫に保管していました。被災刀剣でも、二代光圀公所用の《太刀 銘 國宗》のように、水戸黄門のお話で名前が知られた刀以外、ほとんど展示は行っていません。《刀 燭台切光忠》(以下《燭台切光忠》)が現存することはもちろん知っていたし、研究者の方にお見せすることはありましたが、それを展示する対象として考えたことはありませんでした。
 
そんな

おいしいとは、上質とは。|ホルトハウス房子

『暮しの手帖』の仕事をはじめた時、僕はすぐにホルトハウス房子さんにお会いしたいと思っていた。ベストセラーになった『カレーの秘伝』『ホルトハウス房子 私のおもてなし料理』は、正統であること、上質であること、自分のスタイルを持つことを僕に教えてくれていた。
 いつも若々しく、チャーミングなホルトハウス房子さんから、ある日、料理と味についてこんなふうにお話しいただいた。
 食べている最中ではなく、食べ終

着るほどに育む布、ホームスパンを訪ねて。

 松浦弥太郎さんには憧れの服があった。志賀直哉、武者小路実篤といった白樺派のメンバーや濱田庄司、河井寛次郎など民藝運動の先人がこぞって愛した「ホームスパン」である。ホームスパンはスコットランドを発祥とする毛織物の一種で、ホーム(自宅)でスパン(糸を紡ぐ)することからその名がついた、ツイードの一種である。明治の初め頃に日本に伝わり、コートやジャケットなど主に外套用の高級素材として北海道や東北など寒冷

焙煎機とコーヒーミルのあるミッドナイトロースターの家。

 玄関を開けるとすぐ横に、コーヒーの業務用焙煎機がドン! と置いてある。高さは2m以上、奥の消煙機まで入れると幅は4m以上。大きな焙煎機があると聞いては来たものの、家の中で間近に見ることがないからか、その大きさに思わず驚きの声がもれる。
 鎌倉でカフェ ヴィヴモン ディモンシュを営む堀内隆志さんの住まいは、店から車で約10分。築25年の木造2階建てで、住み始めたのは5年ほど前。妻の千佳さんが不動産

扇の家

 基形の敷地いっぱいに建てられているから「扇の家」。この家が木造になったのは鎌倉の歴史と深い関係がある。
「この家の前にある坂は鎌倉に入る関所だった要所。当時は遊廓や茶屋があり、この敷地からも茶碗などが出てきたんです」と設計者の眞田大輔さん。
 こういった歴史的遺物が出土すると重要なものは博物館行きとなるけれど、さほど重要ではないものは調査・記録したあと、元の場所に埋め戻す。そのため、基礎を深くま