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登山家

自分の存在を懸けた「本物の体験」とは何か。|服部文祥

 学生時代に山登りにのめり込んでしまった者が企業に就職して生きていくのは難しい。自分の命さえもてあそぶほどの自由を登山で知ってしまうと、時に滅私して組織のコマになり、人生を切り売りして、サラリーを稼ぐ生活がバカらしくなってしまうからだ。一方で、子供の頃から所属してきた日本の社会を切り捨てて、仙人のように生きていく覚悟もない。
 20代の最初の頃、山登りに身を費やした若者が、自由を捨てずに生きていく

細かな道具の片づけに。

デスク周りの小物などの収納に便利な取っ手付きの収納トレー。本体素材はポリプロピレン製で、内部には整理のしやすい間仕切り付き。木製の取っ手が備えられているので持ち運びも簡単だ。デザインはスイスを拠点にするユニット、ビッグゲームによるもの。〈アレッシィ〉の新作だ。7,000円(アレッシィ/アレッシィ ショップ青山☎03・5770・3500)

パタゴニアの名峰「セロトーレ」に素手で挑む。

 世界のクライマーたちを魅了する、パタゴニアの鋭峰「セロトーレ」。3102mの花崗岩からなる山は、まるでナイフの刃というか、鉛筆の先というか。とにかくズバッと空に突き刺さるように鋭く聳え立つ。しかも、常に気候のコンディションは最悪。晴れていて雲が遠くの方に見えていたとしても、15分後には風速130㎞/hの強風に見舞われるという。そんな難攻不落の山、セロトーレの登頂に挑んだのは、史上最年少でクライミ

雲取山荘

 東京で唯一、標高2,000mを超える雲取山。その高さ2,017mの東京都最高峰です。山頂の下にある雲取山荘は昭和3(1928)年、“鎌仙人”こと富田治三郎が鎌一本で拓いたといわれる山小屋。山頂へと続くのびやかな尾根には田部重治を筆頭に、日本近代登山を牽引した登山家の足跡が刻まれています。古い文献を紐解き、東京の山の歴史に触れるのも新鮮な体験。

作ることが真ん中にある、テントみたいな海辺の住まい。

 西アフリカに魅せられ、もう20年以上、毎年のように旅に出る。長いときは数ヵ月。なぜ西アフリカなのか。純粋さに惹かれるというのも嘘ではないけれど「本当のところ」は説明がつかない。「登山家が、山があるから登るのだと言うように、なぜと聞かれて説明のできないことが、その人にとって本当に大事なことのような気がする」とこばやしゆうさんは言う。
 陶の器やオブジェといった土の仕事を中心に、もの作りを生業とする

陛下に「エベレストは曇ってました」としか言えなくて。|三浦雄一郎

メタボから普通の65歳の体形体調に戻ろう、そしてエベレストに登ろうと決心しました。ところが試しに藻岩山っていう531mの山に登ってみたら、途中でのびて動けない。登るまで5年あったんですが、これでエベレストどうなるんだって気が遠くなりましたよ。けれど僕のモットーは「これ以下はない」でしてね。朝起きると足首に1㎏ずつ重しをつけて、代々木公園を歩きました。1日8時間寝てたとしても、12〜13時間は起きて

余命を勝手に宣告されて、70までは無理だぞと。|三浦雄一郎

1962年に第2回世界プロスキー選手権がアメリカであって、アルバイト先の登山用具屋さんが、飛行機賃だけは出してやるからあとは向こうで稼げっていうんで、ヒッチハイクしながら大会に出ました。その年の世界ランキングで8位に入ったんですよ。けどもう30歳ですからね、次に人がやらないことをやろうとイタリアのスピードレースに出ました。東洋レーヨンへ出かけていって、世界で一番抵抗の少ない薄いユニフォームを作って

北大の試験はね、ご先祖が答えを描いてくれたんです(笑)。|三浦雄一郎

 津軽半島の崖をよじ登ったり、砂浜でごろ寝したり。で、海へ潜って魚、アワビ、野菜は拾って食べたり。夏休み中、ほぼ1ヵ月。これ、高校3年間と、北大入って家へ帰ると3年間。6年間も夏は一人ぼっちで津軽半島(笑)。弘前高校は青森県で1、2番の進学校だったんですよね。で、東大はちょっとだめだけれど、北大ならなんとかなるんじゃないかっていう連中が20人受験に行って。じゃあ俺もと。北海道の方がスキーもできると

雪山から帰ったら、気持ちと態度がデカくなりました。|三浦雄一郎

 生まれは青森県青森市で父親・敬三は当時営林署という山の役人をやってました。冬の八甲田に入ってはスキーと写真に熱中して、当時の山、スキーを好きな人たちに「八甲田の主」と全国的に知られていた。僕も3歳くらいから八甲田に連れていかれて、スキーを始めました。青森はちょうど『おしん』の頃で、冬になれば除雪も何もなしですから、馬が橇をひいて首の鈴をシャンシャン鳴らしながら家の前を通っていく、そんな時代です。