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日常的ドイツの冒険 by村上春樹 Vol.2「かくしてハンブルクの夜は更ける」

村上さんがドイツのいくつかの街を巡った1ヵ月間を記録。1984年のBRUTUSドイツ特集でのレアなエッセイ集を復刻掲載。

Text: Haruki Murakami

かくしてハンブルクの夜は更ける

笑うに笑えないそのハンブルクの高級住宅地にあるベンションに何日か泊った。この付近には、実におそろしいくらい何もない。屋敷また屋敷である。同じような清潔な風景がどこまでもつづく。おかげで夕食をとる場所を見つけるのにひどく手間どった。

それでもしばらく歩くと、Uバーンのエッペンドルファ駅にぶつかった。駅のまわりには小さな商店街がある。何軒か飲食店もある。でもその頃には僕もだいぶ歩き疲れてへそまがりな気分になっていたので、中でもいちばんうらぶれて人気のなさそうな店をわざわざ選んで入った。中に入ると客なんて一人もいない。カウンターの中には四十すぎの引退したレスラーみたいなかんじのおっさんがいて、ラジオでサッカーの中継を聴いている。ドアのわきにはひよっとしてアデナウアー時代から置き放しになっているんじゃないかというかんじのジュークボックスがあり、ビリー・ヴォーン楽団の「浪路はるかに」がかかっている。なかなかのもんである。

店内は思ったよりずっと広く、がらんとして、趣味が悪い。早い話が十五年くらい前の高円寺のスナックというかんじなんだけど、つんととりすました住宅地を何日もかけてぐるぐるまわってきたあとでは、こういう雰囲気が、えもいわれず心地良くて、ほっとなごんでしまう。たいした食べものはないが、黒パンの上にチーズをのせたもの(ケーゼブロート)とハムをのせたもの(シンケンブロート)はしっかりとした素朴な味わいで、好感が持てる。ヴォリユームもたっぷりで、それにポテト・サラダをつけてホルステンの生ビール(フォムファス)で流しこむと、かなりおなかいっぱいになってしまう。値段もそれで千円とちょっとというところである。

僕が一人でモグモグとそれを食べているあいだ、おっさんはずっとラジオを聴きつづけている。店の壁にはハンブルクのサッカー・チームの写真が所狭しと貼ってある。中にはおっさんがスター選手と握手をしているところを撮った写真もある。おっさんはニコニコと笑って、手にはチームの旗を持っている。幸せそうである。ジュークボックスでは、こんどはトレメローズの「サイレンス・イズ・ゴールデン」がかかっている。そんな具合にハンブルクの夜は更けていくのであります。