ペルゴレージ
「スターバト・マーテル」
1950年代、60年代、70年代、80年代と、4つの時代にわたって録音された5枚のLP「スターバト・マーテル」がうちにあった。僕はこの曲が昔から好きで、仕事をしながらよく聴いている。
ロッシはイタリア歌劇のスペシャリストとして高名だが、一方で宗教曲も積極的に録音している。ペルゴレージ「スターバト・マーテル」は古い録音が意外に少なく、1950年代に吹き込まれたものは珍しい。
録音(まったく残響なし)、スタイル(ほとんど愛想なし)共に、今聴くとかなり「古式ゆかしい」が、そのいかにも簡素な気取りのない佇まいに好感が持てる。今となっては求めがたい音の風景だ。

あくまで淡々としたロッシに比べると、マゼールの演奏はいかにも若き日の彼らしく野心的で、終始攻めの姿勢を貫いている。哀しみに包まれた清らかな宗教曲というよりは、魂の奥底の強い叫びの音楽のように聞こえる。
オーケストラが積極的にドライブし(その楽団は故フリッチャイにみっちり鍛え上げられた)、2人の優れた歌手がそれにしっかりと応える。しかし聴き終えたとき、そのいささか前のめりの姿勢に少しばかり疲労を感じることになるかも。

シモーネの率いる小編成オーケストラの演奏は、マゼールに比べるといかにも清新でたおやかだ。26歳で夭逝した天才作曲家の遺した美しい調べが、心静かに再現される。歌手も優しく朗々と歌い上げる。残響がきれいにきいた録音が、まるで教会の中にいるような雰囲気を醸し出す(ききすぎているかな、という気もしなくはないが)。
演奏者のエゴを感じさせないところが長所であり、また人によっては物足りないところかもしれない。でも心が洗われた気持ちになることは確かだ。

グラチス盤はなんといっても、ミレッラ・フレーニとテレサ・ベルガンサという2人の名歌手の歌唱が聴き所だ。この盤ではシモーネ盤とは違って、宗教性よりはむしろ純粋な音楽性の方がより強く追求されているようだ。ナポリ音楽院における録音は残響も適度に抑えられ、いかにもアルヒーフらしい「生真面目さ」が随所に感じられる。
しかし、繰り返すようだけど、フレーニのソプラノとベルガンサのアルトの絡みは本当に素敵だ。何はともあれ聴き惚れてしまう。

クラウディオ・アバドの指揮した演奏を聴くと、この人がどれほど聡明で感覚に優れ、構成力の確かな指揮者であるかがよくわかる。すべての面におけるバランスの良さに、聴いていて思わずほれぼれとしてしまう。押しつけがましくもなく、言い足りなくもない。歌唱の見通しも確かだ。
アルトのテッラーニはシモーネ盤と重なっているが、同じ歌手でもこんなにも印象が違って、生き生きと聞こえるものかと感心しないわけにはいかない。とまあ、文句のつけようがないのだが、そのあまりに優等生的な音楽のあり方にちと気疲れしてしまって……という言い方は酷だろうか?
こういう曲はたとえ多少の破綻があっても、心にさっと光が差し込むような特別な瞬間が必要じゃないかと思うんだけど。
