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「うちの書棚から」 文・村上春樹

村上春樹、手放すことのできない 51冊の本について語る。

Photo: Keisuke Fukamizu / Text: Haruki Murakami

僕はレコードの蒐集に関しては、長年かけてかなり真剣に追求をおこなってきたけれど、書籍蒐集に関しては正直なところ、それほどの熱意は持っていない。初版本とか稀覯本とか、そういうものにもほとんど興味がない。

もちろん本好きではあるが、本というモノ自体にとくに執着はない。たいていの本は読み終えたらさっさと処分してしまう。うちにはそれほどの置き場所もないし(数多くのLPレコードに占拠されてしまっている)、もう一度読み返す本、あるいは後日引っ張り出して参考にする本というのは限られている。

だから読んでしまった本の多くは古本屋さんにまとめてひきとってもらう。あるいはどこかに寄付する。古本屋に売ってもたいしたお金にはならないが、リサイクルしているんだと思えばいい。本というのは、読みたい人の手から手へとどんどんわたっていけばいいのであって、個人の本棚の隅っこに死蔵していては、その価値は発揮されない。それが僕の書籍に関する基本的な考え方だ。

だから今うちの書棚にある(生き残っている)本は、(1)まだ読んでいない本(2)そのうちに読み返すかもしれない本、必要になるかもしれない本(3)いただきものの本、多くは著者のサイン入り(4)なんとなく愛着があり、手放しがたい本……ということになる。またそこに(5)実用性のある本、という一項を加えてもいいだろう。

ここにあげた51冊の本(ちょうど50冊にするつもりだったのだが、どうしても1冊多くなってしまった)は、おおよそその5つの分類のどれかに属するわけだが、大半は(4)の「なんとなく愛着があり、手放しがたい本」にカテゴライズされるかもしれない。

(1)(2)に関しては、特殊なものでない限り、今の時代(昔ならともかく)いざ必要になればインターネット通販で手に入れることが可能なので、それほどのこだわりはないのだが、個人的な思い入れのある本というのは、やはりしっかり手元に置いておきたいものだ。

そういう本は汚れや、変色や、やれみたいなものさえ自分の一部のようになっていて、かえって愛着が湧いてくる。ページがほどけてばらばらになったのを、セロテープで貼り合わせた本みたいなのもある。そしてそういう本にはなぜか「これ、一度手放したら、また見つけるのがむずかしそうだな」という種類のものが多い。

村上春樹の本棚
村上氏自宅の書棚。

考えてみれば、僕は10代の頃に浴びるほど本を読んだ。何はなくとも、とにかく本さえ読んでいられれば幸福だった。たくさん本を買ったし、図書館の本も読みまくった。読んだ本の多くは小説だった。しかし記憶している限り、小説家になりたいと思ったことはなかった。本を読むという行為があまりに好きだったので、自分で何かを書くという方に頭がまったく働かなかったのだ。

小説というのはなにしろ素晴らしいものであり、この自分にそんなものを書く資格があるなんて、大それたことはとても考えられなかった。でもあるとき、20代の終わり頃だが、ちょっとしたきっかけがあって、「ひょっとしたら僕にも何か書けるかもな」と思った。そして「何か」を書き始め、結果的にそのまま -自分でもよくわからないうちに- 職業的作家になってしまった。

小説を書き始めたときに役に立ったのは、そしてその後もずっと役に立ち続けたのは、それまでに浴びるように読んできた様々な本の「記憶」の集積だった。それは巨大な深い貯水池のようなもので、僕は必要に応じてそこから自分のための水を汲んでくることができた。

もしそのような集積が存在しなかったら、今までこうして小説を書き続けることはとてもできなかっただろう。考えてみれば、僕はこれまで小説を書くことで悩んだり苦心した覚えがほとんどない。もし何かが欲しければ、もし何かが足りなければ、その貯水池から自分のための水を汲んでくればよかったわけだから。

本当に大事なのはモノではなく、身体の内側に染み込んだ記憶だ。心からそう思う。霊感とは記憶のことだと誰かが言った。

ここにあげた51冊の本は、そのような巨大な貯水池に流れ込んだ水源のほんの一部、ほんの一掬いに過ぎない。結局のところ -こんなことを言うと、世の愛書家たちの憤激を買いそうだが- ただのモノに過ぎない。でもなぜか手放すことのできないモノたちだ。

そしてそうやって手元に残されたモノたち、一冊一冊を手に取り、それについて短い口上を述べていく作業は思いのほか楽しかった。自分自身の中にある、これまで形を持たなかったいくつかの記憶に、僅かなりとも形を与えていけたみたいで。

村上春樹の書棚からの51冊