映画界の未来はクリストファー・ノーランに懸かっている。この言い回しは何ら大げさではない。2020年に世界を襲った新型コロナウイルス禍において、新作映画の多くが配信に流れる中、ノーランは多大なリスクを覚悟で『TENET テネット』の劇場公開の意志を貫いた。
ムーヴィングピクチャーとは、映画館のスクリーンで体験/体感するものだと、未曽有の厄災のもとでただひとりハッキリと実践で表明したのだ。
デジタルシネマ主流時代にフィルムでの撮影にこだわり、「私は伝統主義者だ」としばしば喝破するノーランだが、その志向をノスタルジックな映画愛に還元する愚だけは避けたい。
彼こそは映像環境の多様化によりコンパクトな視聴傾向が進む中、IMAXというダイナミックな規格を使って、新しい「大型映画」の可能性を誰よりも追究している果敢な監督である。
09年のジェームズ・キャメロン監督作『アバター』以降のデジタル3Dや4DXのアトラクション化などとは距離を測りつつ、映画でしか味わえない全感覚的な体験/体感を創出すること。そこでノーランが駆使するのは「時間」という主題だ。
初期の『フォロウィング』や『メメント』から、特異な時間操作は彼の作家性として認められたが、「大型映画」で全面展開したのは10年の『インセプション』が嚆矢だろう。
『インセプション』
アーキテクト(設計士)と呼ばれるエレン・ペイジ扮する建築学科の学生アリアドネが管理している『インセプション』の夢のモデルは、奇術めいた跳躍も含めて厳密に整備された多層空間だ。夢に入り込んだ産業スパイたちは、オンラインゲームに参加したプレイヤーのように様々なステージを行き来する。
もともとノーランはアルゼンチンの作家、ボルヘスの短編集『伝奇集』に触発されたと公言しているが、しかしマジックリアリズム文学のような非合理で幻想的な夢の表現とは違い、極めて明晰な空間設計と秩序で統治されたもの。
そこには我々が体験/体感したことのない独自のシステムやルールが敷かれている。つまり「現実の時間」ではなく「映画の時間」が流れている。
ノーラン流の巨大な虚構の快楽とは、現実の価値体系とはまるでかけ離れた「映画の時間」に身を投じる歓びである。ただし既成のコードに囚われず自由に時空間をコントロールする立場だからこそ、ノーランは「何でもあり」のだらしなさに陥ることを禁じて、世界創造の設計図を引く。
『インターステラー』では理論的なブレーンに物理学者のキップ・ソーンを迎え(17年にノーベル賞受賞。彼は『TENET テネット』でも監修に入っている)、別の銀河系へと飛ぶ宇宙飛行士の旅を高次元空間のアクセスにまで突き抜けさせた。
『インターステラー』
『ダンケルク』はもっと大胆だ。第二次世界大戦の有名な軍事作戦の史実を扱いながら、現実の時間軸をパーツに分解して複雑にシャッフル。陸・海・空のパートでは切り取られる時間のサイズが異なり、朝昼夜のような通常の推移もない。「映画の時間」へと超変換させたメタモデルを構築し、異常な緊張感が全編持続する。
『ダンケルク』
既成概念に基づく時間のルールを解体し、ハイコンセプトなシステムをスクリーンの上に設計する。ノーランが繰り返し行っているのは、観客を新たな知覚の領域に覚醒させるトリッキーな体験/体感の試みだ。
『TENET テネット』では、タイトルかつミッションのキーワードでもある“TENET”が回文(逆さに読んでも同じになる言葉)になっていることに、本来不可逆な時の流れを、循環や反転に替えてしまう逆行のイメージが象徴されている。本作で発動される「逆行アクション」はひたすら快楽的で、ノーランの発明の中で最もポピュラーな突出点ではなかろうか。
『TENET テネット』
先鋭的な映画表現を切り開きつつ、同時に頑固なアナログ主義者でもあるノーランは、相変わらずIMAXカメラと大判フィルムを用いた実景での撮影に執着し、視覚効果もほぼCGを使っていない。
『インセプション』のパリの街の地面がせり上がって壁のようになる衝撃シーンにしろ、VFX万能主義に背を向けるノーランが行うのは、人力の工夫による昔ながらの「特撮」だ。今回の逆行アクションでは、実際にキャストやスタントマンが逆向きや異なる方向に走ったり歩いたりもした!
ノーランといえば独創的なヴィジョンから知的な側面ばかり語られがちだが、しかし映画監督として彼の本質にあるのは、いまどき珍しい豪快な「活動屋」の気風ではないか。少年の頃から父親の8㎜カメラで遊んでいたという生粋の映画小僧。
とりわけ『TENET テネット』はノーランの稚気が伸びやかに爆発しているところが魅力の肝で、『007』シリーズへの憧れも露骨な娯楽大作である。
主演のジョン・デイヴィッド・ワシントンは、『メイキング・オブ・TENET テネット クリストファー・ノーランの制作現場』(玄光社)に寄せた序文で、格闘シーンの撮影中に勢いあまってカメラマンを何度か蹴ってしまった時、ノーランが「いいから続けて!気にするな!」と言ってくれたことが忘れられない想い出だと語っている。
このメイキング書籍には『ダンケルク』の時以上に凄まじい数の高額な船を用意し、数々の車両を改造し、実際の空港でボーイング747型機を激突させるなど、世界中を飛び回って破格のスケールで撮影を敢行する「ノーラン組」の高揚を伝えるエピソードが満載だ。
改めて言おう。クリストファー・ノーランとは、IMAXカメラを担いだ21世紀最高の「活動屋」。でかいスクリーンで体験/体感する映像と音響の愉悦を求め、かつてスタンリー・キューブリックやデイヴィッド・リーンが行ったシネラマ上映の魂を継承し、新たな伝説を生み続けている。