呂布カルマ|ラッパー

雲の上を歩いてるみたい それでもまだ手は星に届かない 二回目を期待して今を無駄にした そしてまた後悔を歌にした 他人事にしとこう 見事に同じ方向に行進 列を抜けて別行動 くぐる鉄条網 情報の出所はどこってこと  「white heaven」(作詞/呂布カルマ)   ラップバトルで頭角を現し、テレビ番組『フリースタイルダンジョン』の“2代目モンスター”としてその名を全国に知らしめた呂布カルマさん。“

「吹かしてください!」ってセッションの中へ飛び込んだんです。|渡辺貞夫

 学校では毎日放課後に講堂で、センチメンタル・ジャーニーだったり、アメリカの流行曲なんかを練習してました。当時はダンスホールが流行っていて、宇都宮の街の中に3〜4軒ダンスホールがあったかな。そこへ僕はウィークエンドに楽器持っていってね、2、3ヵ月もしないうちにメンバーになって。吹けないんですけど、あの、見た目だけね。ステージの上の見栄えのために(笑)。16の時に18歳とごまかして進駐軍のクラブで演

憧れのアメリカは、まだ遠い国でしたからね。|渡辺貞夫

 箱根の富士屋ホテルの仕事のあと、横浜のクラブでリズムアンドブルーズを毎晩やったりもしました。黒人のGIが集まるハーレムというクラブで演奏してると、周りでGIが踊ったりするんです。それで、「貞夫いけー」 と言われて吹きながら歩きだすと皆が踊りながら後をついてくる(笑)。2階に上がったり下りたり、吹きながら移動してクラブの外に出ちゃったりね。ウィークエンドのジャムセッションを秋吉敏子さんも覗きに来

浮浪児から盗んだ鯛が、人生初めてのお頭付きでした。|宇野亜喜良

 僕は1934年に生まれて、名古屋の矢場町っていうところで母親が喫茶店をやっていて。父親は今風に言うとインテリアデザイナーで、室内装飾みたいなことをやっていました。父親は一度離婚していて、姉が2人、兄貴が2人いて、それから母親と結婚して僕と妹。あ、母親の方にまた、2人の姉の連れ子がいたりして、寄り合い所帯というんですか。僕は小学校のときに疎開をしまして、そこで6年生で終戦を迎え、12月くらいに名古

いつも音楽を求めて、旅をしていましたね。|渡辺貞夫

 バークリーにいた3年10ヵ月ほどの間には、ゲイリー・マクファーランドの10週間のツアーに参加して、ステーションワゴンでアメリカ大陸の東と西を行ったり来たりも経験しました。とにかく多忙な毎日でした。その後、ニューヨークに落ち着いてスタジオミュージシャンとしての生活が始まったんです。けれど〝ニューヨークの大停電〟で半日、電気が止まったとき、日本に帰りたいという気持ちがすごく強くなってね。その日のうち

毎日の家庭料理から大切なことを学んだ。|土井善晴

料理研究家としてテレビや雑誌などで活躍する土井善晴さん。父の土井勝さんも同じく料理研究家で、家庭料理家の祖と呼ばれている。勝さんは「おふくろの味」ということばを生み、旬のおいしさと家庭料理における日本の伝統的な暮らしの大切さを伝え続け人気を博した人物だ。 「父は子育てに関して放任主義、というより家のことは母任せで、自分は忙しくて構っていられなかったんだと思います。勉強しろとか、仕事を手伝えとか言わ

終戦、引き揚げ、日本での闘いが自分を支える大きな幹に。|宝田 明

仕事始めて3本目かな、「お前に今度主役をさせてあげる」、えーーー! 今まで「新人宝田明」と出ていたのが、一番右端の一番最初に書かれるんだ 真っ赤な台本にはカタカナでゴジラと書かれている。当時はゴジラって何ですか? という感じで。空想、長編、科学映画、今でいうサイエンスフィクションだよと。ゴジラは会社にとっても一種の賭けっていうかな? 日本は唯一の広島・長崎の被爆国家だし、昭和29(1954)年に第

占領政策で、昼間からチークダンスなんて可笑しいわ。|湯川れい子

戦死した兄の影響は大きいです。昭和18(1943)年の6月ですが、出征前に3日間泥まみれになって防空壕を掘ってくれて。その間中、口笛を吹いていて、メロディを覚えちゃったんです。父が突然亡くなり、兄も戦死。私と母は米沢に疎開して、終戦後目黒の焼け残った家に帰りました。私は体が弱くてよく熱を出していました。本が好きで熱が下がってくると少女小説とかハイネとかリルケの詩集を読むので、母に「ぶり返すから駄目

高城晶平

いつからか音楽を仕事にしたいと思っていた。高校で現メンバーの橋本翼さんと前身となるバンドを始め、大学時代には荒内佑さんも加わり、すでにceroの原型ができていた。 「大学を卒業する時も、特に就職活動はしませんでした。漠然と、あと2〜3年やるなかで何かきっかけさえあれば、いずれ音楽でやっていけるだろうみたいな確信がありました」   幼少期、『COMIC CUE』でサブカル的目覚めを得た髙城晶平さん

守衛さんが背中を押してくれなかったら、今はないね。|宝田 明

 高校で演劇部に入ったんですが、学校に来る写真屋さんがいるじゃないですか、修学旅行とかで。その人に「宝田、東宝でニューフェイスを募集しているから受けてみないか」って誘われて。僕は大学受験のために一生懸命勉強してたんだけど、どうせ落ちると思っていたからね。そしたら、はがき一枚で「写真審査に合格したから一回、東宝に来てくれ」と。そのはがきを持って、渋谷から成城までバスに乗って、東宝撮影所前で降りた。み

注目のキーワード