ライフスタイル

「ウルフカットの人」

長井短の『優しさ告げ口委員会』

No. 940(2021.06.01発行)
京都で見る、買う、食べる、101のこと
ウルフちゃん

ウルフカットの女の子は優しい。ウルフちゃんは演劇の、演出部の子。演出部が何かっていうと、舞台袖に真っ黒の服を着て佇む忍者集団だ。忍者たちは、俳優が舞台上で滞りなくお芝居をするための全てをやってくれる。舞台セットの転換、道具の準備、袖灯りの整備や、時には使いにくい小道具の改造もやってのける。あぁ演出部様、いつも本当にありがとうございます……あなたたちがいるから私たちは安心して舞台上に歩み出せるのです……演出部のお仕事はもちろん確かなスキルによって行われるものだけど、それだけじゃない。思いやりもそのまま仕事に直結する。そして今回の主役、ウルフちゃんは思いやりがエグいのだ。劇場では大抵、内ばきを履いて楽屋から舞台袖に向かい、そこに用意されている衣装靴に履き替えて眩しい照明の中に入っていく。靴を履き替え忘れるなんてことはないけれど、ここにはトラップがある。出て来た方の袖に帰るとは限らないのだ。つまり、上手から出て来て下手にはけると、内ばきがないのです。まぁでも別に? 劇場内って基本土足禁止だし、下手から上手への裏通りを裸足で歩いて靴を取りに行くなんて全然できるんだけど。ちょっと面倒だから下手側から来るようにしようっと思った時だった。ウルフちゃんが、下手の袖に立っている。私の内ばきを持って……「なんでわかったの?」と言いながら近づくとウルフちゃんはニコッと笑って「次は下手から来てくださいね」と言う。こんな可愛くお願いされたら絶対そうするよ〜と思ったのに、次の日私は綺麗にそのことを忘れ、またもや上手に内ばきを置いたまま舞台上に出てしまった。袖にはウルフちゃんが笑いながら立っていて「これは?」と聞いてくる。「下手で脱ぎます」「そうです」。こんなやりとりを、木偶の私は五回もやってしまいました……覚えられなすぎ。私が自分で下手に内ばきを置けば、ウルフちゃんはやらなくていい仕事から解放されるのに! 反省に反省を重ね、ようやく下手に内ばきを置けた日。ウルフちゃんは用もないのにいつも通りに下手にいた。「できましたね、偉いです」小さな声で囁くウルフちゃんに私はもう恋をしていて、だって、こんな風に褒めてもらえることって大人になってそうそうない。俳優の士気を高めることも、ウルフちゃんにとってはお仕事の一つなのかもしれなくて、そこまでして演劇を成立させようとしてくれるあなたのことが大好きです。あなたがいる演劇の未来は明るい。

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ながい・みじか

1993年生まれの演劇モデル。文筆家としても活動、初の著書『内緒にしといて』(晶文社)がある。夫・亀島一徳との交換日記をnoteに公開している。

文・イラスト/
長井短

本記事は雑誌BRUTUS940号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は940号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.940
京都で見る、買う、食べる、101のこと(2021.06.01発行)

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