エンターテインメント

萩原慎一郎『歌集 滑走路』

星野概念「精神医学で診る本の診断室」

No. 930(2020.12.15発行)
世の中が変わるときに読む本。

「箱詰めの社会の底で潰された蜜柑のごとき若者がいる」「癒えることなきその傷が癒えるまで癒えるその日を信じて生きよ」など。いじめ、非正規雇用、恋と、逆境に苦しみながらも希望を歌い続け、32歳で命を絶った歌人が残した唯一の歌集。角川文庫/580円。

主治医・星野概念 診断結果:無邪気ないじめ、理不尽な差別が残す、孤独と痛み。

 僕は病院で色々な悩みを抱える人と会いますが、精神医療ではほぼ歯が立たないことも少なくありません。誹謗中傷や貧困、過労など、本人にはどうにもできない、社会が生む辛さに絡めとられてしまっている人がそうです。人生で最初に生じ得る社会的な辛さは、学校という社会での「いじめ」ではないでしょうか。「なんか嫌い」「なんかムカつく」など、人を攻撃する根拠に全くならない理由で集団になって個人を攻撃する。これは、様々な差別と相似形です。個人を超えて、人種や性別、障害などに拡大したのが、社会的規模での差別。子供が育つ学校社会にも、「いじめ」という理不尽な差別行為が、珍しくないものとして根づいてしまっています。もしかしたら、いじめをする人にも、劣等感や、不安定な家庭環境など、捨て置けない問題があるかもしれません。でも、誰かを攻撃してその不足感を補おうとすることは圧倒的に間違いです。いじめられるということは、理由ははっきりしないけど自分に否定的な集団に攻撃を受け続けるということで、徐々に冷静さを失い、自分が足りない人間に思えてきます。この時期の恐怖や、培われる自己否定的な考えはその後の人生に大きく影響します。本作の著者もいじめで人生が大きく変わってしまいました。歌集の中の言葉や、言葉と言葉の間に、無数のやるせなさが滲んでいます。しかし同時に、希望の種をなんとか握りしめているようでもいて、著者の叫びは読者の小さな光になります。孤独を感じて消えたくなるような夜、著者がまさに命をかけて紡いだこの歌集に救いを求めて、またページを開くのだと思います。

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ほしの・がいねん

精神科医など。いとうせいこうとの共著に『ラブという薬』『自由というサプリ』がある。

編集/
大池明日香

本記事は雑誌BRUTUS930号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は930号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.930
世の中が変わるときに読む本。(2020.12.15発行)

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