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電気も来ない戦後の沖縄でラジオを開始したんです。|川平朝清(第三回/全五回)

TOKYO 80s

No. 929(2020.12.01発行)
餃子♡愛

 すぐに翻訳の仕事につけたのは高等学校の先生のおかげです。どこも敵性語である英語教育を廃止する中で、我が校では英語を強化し、南方進出の占領にあたる人材を育成すると。私たちは戦争中も英語を週8時間学びました。その後、アメリカ軍が始めた放送局AKARに関わることに。一番上の兄、朝申は台湾にいた頃に台北放送局でラジオ新聞の編集をしていました。兄は戦後の沖縄で文化部の芸術課長に任命され、娯楽やニュースを伝える媒体として、ラジオを政府に進言したんです。ところが上層部は「家はおろか、電気もない時代に誇大妄想もはなはだしい」と。ひるまずにアメリカ軍政府にそれを伝えると、彼らは意外に思ったわけです。沖縄にも放送経験者がいるのかと。日本放送協会は一応、沖縄放送局も作っていたので、戦争で生き残った技術者もアナウンサーもいたんです。それならアメリカ軍政府で作ろうとAKARができました。残念なことに放送前にアナウンサーの方が亡くなりまして。私は台北の放送児童劇に小学生の頃から出ていたので、マイクの前に立った経験がある。それに台湾では標準語が使われていました。医学部に行くチャンスはそのうちあるから、それまではアナウンサーをやれと兄に言われ、アナウンサーになった次第です。試験放送の開始は1949年。まだ受信機も普及してなくて、親子ラジオと称する有線放送です。村長さんのところに発電機と受信機を、各家庭にスピーカーを置いて、有線でつなぐんです。初期の放送は1日に約2時間。それからだんだん普及していきました。親子ラジオを商売にする人たちも出てきて、有料ラジオが沖縄で広がるわけです。アメリカから録音機とテープレコーダーが入ってきて、古典音楽の演奏や民謡歌手の歌声を録音して放送したり、アメリカ軍の広報担当に話をつけて、アメリカ軍のクラブにいるバンドに公開録音を頼んだり。東京や大阪から来ているバンドの人たちは沖縄の人たちにも生の音楽を聴かせられるならと喜んで協力してくれました。それで、ラジオは面白いなと。医者になって、万が一、人に迷惑をかけるよりはラジオで人を生かした方がいい、そういう気持ちになりました。当時、アメリカの大学にはラジオ・テレビの専攻があり、放送経営を勉強したいと留学試験を受けて、ミシガンに留学することになったんです。1953年のことです。(続く)

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川平朝清

1927年生まれ。沖縄放送協会初代会長。元NHK経営主幹。昭和女子大学名誉教授。

PHOTO/
SHINGO WAKAGI
TEXT/
KUNICHI NOMURA
EDIT/
HITOSHI MATSUO, TOSHIYA MURAOKA

本記事は雑誌BRUTUS929号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は929号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.929
餃子♡愛(2020.12.01発行)

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