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国破れて、山河すら残らなかったんです。|川平朝清(第二回/全五回)

TOKYO 80s

No. 928(2020.11.16発行)
物語る、日用品。
川平朝清

 終戦の玉音放送は耳にしませんでした。台湾北部にある大屯山の山小屋にいて、中隊長が山から下りて聴いて帰ってきて、戦争は負けたと。正直、ほっとしました。軍事教練用の鉄砲とたった1丁の新式機関銃、そういう装備しかない、まさに死ぬためにいるような気持ちでしたから。一方、台湾出身の同級生たちの身分はどうなるのか。そして沖縄はどうなるのか、非常に複雑な心境でした。引き揚げまでに1年以上かかりました。台北の高等学校は中華民国政府に接収されましたが、翌年3月まで教育を続けてくれて、一応卒業できました。その後、日僑と呼ばれた日本人は内地にどんどん引き揚げましたが、琉僑と呼ばれた沖縄人はそうはいきませんでした。アメリカ占領軍が住民の保護をしていたのですが、衣食住がまったく足りないところへ何万人もが帰ってくると事態が逼迫すると、アメリカ軍が引き揚げを認めなかったんです。1946年の12月にようやく帰ることができました。みな引き揚げという言葉を使っていましたが、私にとっては生まれ育った台湾から追放されて、父母から聞いていた新たな故郷に行く気持ちでした。ところが、そこで目にした沖縄の風景は、父や母が話していたものとはまるで違いました。船の上から見ると、艦砲射撃や爆撃を受けた沖縄の丘は真っ白なんです。砲弾によって石灰岩が出てきていたから。母が「国破れて山河あり、と言うけれど、山河も残らなかったわね」と、船上で漏らした言葉を忘れられません。あの頃、占領軍は難民を収容したキャンプを、それぞれ、市=シティとしていました。ちゃんと選挙をして市長を選ぶ。最初にできたアメリカ軍政府は非常に開明的な海軍で、沖縄をデモクラシーのモデルケースにすると張り切っていました。ですから、日本で婦人参政権を最初に認めたのは沖縄なんです。私たちは石川市の軍政府があった軍用テント小屋に住居を与えられました。戦争中、沖縄の人たちは友軍と称する日本から非常にひどい扱いを受けていたんですね。沖縄の言葉、方言を使った者はスパイと見なして殺せと言われるくらい。日本軍は国民を守るより、自分たちを守るので精いっぱいだった。ですから、怖いのは友軍でした。そこへアメリカ軍が来て、出て行ったら殺されるどころか、衣食住を与えられる。そういう意味では解放軍と見られる面もあったんですね。(続く)

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川平朝清

1927年生まれ。沖縄放送協会初代会長。元NHK経営主幹。昭和女子大学名誉教授。

PHOTO/
SHINGO WAKAGI
TEXT/
KUNICHI NOMURA
EDIT/
HITOSHI MATSUO, TOSHIYA MURAOKA

本記事は雑誌BRUTUS928号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は928号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.928
物語る、日用品。(2020.11.16発行)

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