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私が17歳の時に、学校が丸ごと徴兵されました。|川平朝清(第一回/全五回)

TOKYO 80s

No. 927(2020.11.02発行)
映画監督論。
川平朝清

 一家が沖縄の那覇から台湾に移住していたので、私は台湾で生まれ育ちました。父は現在の東京農業大学、創立時の名称は徳川育英会の育英黌農業科で、明治24(1891)年頃に養蚕の勉強をしたそうです。母は沖縄の花城家の出で、沖縄初の女学校を出ています。祖父は1850年、ペルリ(ペリー)がくる3年前に沖縄から江戸に上る使節の小姓として江戸を見てるんですね。明治5(1872)年には明治新政府の非公式随員として、江戸から東京に変わった様子も見ていると。私たちは使いたくない言葉ですけど、琉球処分で琉球王国が沖縄県になった時に、最後の王様の尚泰王は東京の屋敷に移らなければならなかった。今の九段高校の場所に明治天皇から賜った屋敷があって、祖父は留守居役でした。そこに私の父が呼ばれ、尚家から奨学金をいただいて育英黌農業科へ。私が生まれたのは台湾の台中です。まだ姉が元気でしたので、兄3人に姉1人。長屋の小さな家に家族8人ほどで住んでいました。裏手には台湾の方の立派な家があってよく遊びに行きましたね。広い庭には芝居小屋があって、時々人形劇をやっていて、台湾の民衆芸能に触れる機会がありました。兄たちはポータブル蓄音機で流行歌やクラシックをかけていましたし、父が琉球古典音楽の三線を嗜んでいたので、歌に慣れ親しんだ暮らしでした。当時の台湾では日本人の行く学校は小学校、台湾の子供が行く学校は公学校と言われていて、公学校の主な授業では日本語を教える。国語教育が中心でしたね。平和ではありましたが、身辺には軍人が多く見られる環境でした。小学校に入る時に台北に移り、中高一貫教育の旧制台北高等学校へ。中学部門の尋常科を終えて、理科乙類という医学系に進みました。そこで私が17歳の時に学校丸ごと徴兵されました。学徒動員で陸軍二等兵になったのが1945年の3月末、アメリカ軍が沖縄上陸した頃です。当時は軍国教育。お国のため、天皇陛下のために死ぬのが名誉だと。私も軍国少年に育っていました。台北の北東部、大屯山の峠に兵舎を作って戦車壕を掘る作業に携わりました。上陸したアメリカ軍の戦車を峠で食い止めるため、竹の先に弾薬をつけて、戦車が来たら体当たりすると。考えてみたら、戦車の鉄板が爆薬の一つや二つで潰されることはないでしょうけれど、いずれにせよ、そういう訓練を受けていました。(続く)

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川平朝清

1927年生まれ。沖縄放送協会初代会長。元NHK経営主幹。昭和女子大学名誉理事。

PHOTO/
SHINGO WAKAGI
TEXT/
KUNICHI NOMURA
EDIT/
HITOSHI MATSUO, TOSHIYA MURAOKA

本記事は雑誌BRUTUS927号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は927号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.927
映画監督論。(2020.11.02発行)

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