エンターテインメント

柴崎友香『百年と一日』

星野概念「精神医学で診る本の診断室」

No. 926(2020.10.15発行)
恋の、答え。

建物の解体は、滞りなく進み、2週間で更地になった。古本屋に引き取られなかった原稿は、解体屋の男が家に帰る途中で捨てた。人と人は人生のひとコマを共有し、別々の時間を生きている。この星にあった誰も知らない33の物語を紡ぐ短編集。筑摩書房/1,400円。

主治医・星野概念 診断結果:誰かと共有することのないたくさんの些細な時間を、大切に拾い集めるように。

 僕は一つの靴を履き続ける傾向があって、何年かで履き潰したら新調します。今の靴は3年前、福岡の友人の店で買いました。靴底はすり減り、中は破け、そろそろ買い替えの時期です。ボロボロの靴を眺めて、自分が経てきた数年に思いを馳せることがあります。誰々と飲みに行って靴を褒められたとか、旅行先で雨に降られて水浸しになったとか。誰とも共有していない時の流れがふと甦ります。この靴を履いて訪れた思い出深い場所の一つは、鹿児島の障害者支援センター〈しょうぶ学園〉。そこには、もの作り作業を淡々と続ける人たちがいました。陶芸工房でスーパーカーの陶芸を毎日ただ作り、「今日で208個目です」と言う人がいたり、作業中に施設長が「芸術は?」と聞くと「爆発だ!」と元気よく答えるやりとりを30年間続けている人もいました。こう書くと、時の長さも含め印象的に思えますが、その営みはほとんど誰とも共有されていません。生活とは、誰かと共有することのない時間の積み重ねなのだと思います。何か話をする時、印象的な話ばかり思い出されるのは当然ですが、そうではない時間がその何倍もあるはずです。本作に収録された33の話は皆、そんな時間を思わせます。例えば最終話、解体される古い建物で見つけられた50年以上前の誰かの文章集。死後に見つけられ、アウトサイダーアートの代名詞になったヘンリー・ダーガーの絵のような話ですが、そんなドラマティックなことはなかなか起こりません。皆、ほとんどはなんでもない時間を生きている。改めて体感したこの感覚は、人と対話する時の想像力を豊かにする気がしました。

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ほしの・がいねん

精神科医など。いとうせいこうとの共著に『ラブという薬』『自由というサプリ』がある。

編集/
大池明日香

本記事は雑誌BRUTUS926号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は926号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.926
恋の、答え。(2020.10.15発行)

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