土偶を描き、日本中を旅した「歩く人」、蓑虫山人を知る。
- 望月昭秀
- 井浦さん、ドラマ『歩くひと』のロケで行っている場所って、何だか“縄文的”なところが多くないですか?
- 井浦新
- いやあ、そうなんです。縄文遺跡のある山梨県の笛吹市や新潟県の十日町市とか。偶然なんですけどね。でも、そういう場所に行くと「やっぱり縄文人はいい場所を知っているな」と思わされるんです。生活したり、祈ったりするのにベストな場所を見つける目に長けてたのかなと。きっと歩いて歩いて、探したんでしょうね。
- 望月
- その縄文遺跡に惹かれ、土偶をはじめ多くのスケッチを遺した絵師・蓑虫山人もやっぱりひたすら“歩く人”でした。幕末から明治の時代、笈のモバイルハウスで諸国を放浪し、絵日記を描き続けた「ヘンなおじさん」(笑)。彼の人生を一言で表すのは難しいですが、今回、蓑虫の生涯を追う取材を通じて、本当に彼が歩き続けた人生だったということがよくわかりました。
- 井浦
- 僕は2016年にNHK『日曜美術館』で初めて蓑虫の旅の足跡を辿らせてもらって、彼の人生に触れたんですが、蓑虫は訪ねた旅先で出会った人々の絵をいつも描いてますよね。一緒に一夜を過ごした市井の人々の表情が豊かに描かれていて、みんなすごく楽しそうなんです。きっといい出会いをしてたんだろうなあと想像します。
- 望月
- 宴会の絵ばっかり描いている(笑)。しかも、その人たちの絵の横に、それぞれの名前をしっかり書き入れている。もう絵の邪魔になるくらいに。でもこれって、描いてもらった人は嬉しいと思うんですよね。現代で言ったらプリクラとかみたいな、記念写真みたいな意味があったんでしょうね。
- 井浦
- 「一宿一飯」の文化というか。もてなしを受けたお礼に、絵を描いてあげたり、面白い話をしてあげたりとか。物々交換的でお金に換算できない、本当に豊かなカルチャーだなと感じます。
- 望月
- たぶん、めちゃくちゃ人気者だったんだと思いますよ。蓑虫は晩年、地元の岐阜に戻った直後は少し厄介者として扱われたりするんですけど、それでもすぐに人々の心を掴んでいく。そのあたりの人間力みたいなものがすごい。
- 井浦
- 蓑虫って、人に対しても、ものに対しても、尋常じゃない好奇心を感じるんですよね。彼にとっての旅はやっぱり、見たことのない景色、出会ったことのない人やものを求める心が根源にあるんでしょう。縄文遺跡だって、まだ日本で考古学が確かなものになる前に出会っているわけですよね。
- 望月
- そうですね。蓑虫は青森で初めて縄文の遺物に遭遇して、その訳のわからない存在に衝撃を受けたんだと思います。その後、神田孝平という考古学の先達を通じて関心を深めていき、明治28(1895)年には秋田県扇田で日本初の“縄文展”、『神代品展覧会』を開催している。こんなのがあったんだよ! とみんなに見せたかった、感動を人に伝えたいという純粋な衝動があったんだと思います。
- 井浦
- 縄文なんて誰も知らない時代に、その魅力を伝えて、それを見て確実に心を動かされた人がいて。その人の人生の何かが少しでも変わったと思うと、感慨深いですね。
- 望月
- 蓑虫は何かを成し遂げた偉人ではないし、有名でもない。むしろ無駄なこと、得にならないことばかりやっていたような怪しい人ですけど、日本の歴史を形作ってきた一人であって。現代は“無駄の価値”が顧みられない時代になってしまっているけれど、こういう人がいた方が豊かな社会だと思うんです。
蓑虫山人とは?
本名・土岐源吾。蓑虫が家を背負うように折り畳み式の笈を背負い、幕末から明治期にかけて全国を放浪した絵師。美濃国(岐阜県)安八郡結村で生まれ、嘉永2(1849)年14歳で郷里を出て以来、放浪の旅を終える明治29(1896)年まで諸国を訪ね、日本各地の様子を絵に描いた。40代からは、青森県をはじめ北奥羽各地を漫遊し、たくさんの絵を残す。明治20(1887)年には木造町亀ヶ岡遺跡の発掘調査を手がけ、考古学の発展にも寄与した。自らが収集した資料を展示する「六十六庵」建設を構想するも、果たせぬまま、明治33(1900)年この世を去る。写真は麓家収蔵品。
『蓑虫放浪』文/望月昭秀 写真/田附勝
風狂の人・蓑虫山人の足跡を辿る決定版評伝。蓑虫的観光案内付き。撮影は“日本列島”を軸に撮り続ける写真家・田附勝。国書刊行会/2,600円。
- photo/
- Masaru Tatsuki
- text/
- Kosuke Ide
本記事は雑誌BRUTUS926号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は926号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。