エンターテインメント

燃え殻『すべて忘れてしまうから』

星野概念「精神医学で診る本の診断室」

No. 924(2020.09.15発行)
必要な服だけを。

「ねえ、なんで追ってこないの?」。なんでだろう。彼女は溜め息をつき、踵を返して僕の前を歩きだす。僕は間抜けにその後をただ歩いた。予定のなかったクリスマスイブ、新幹線こだまの自由席……戻れない日々の記憶を書き留めた断片的回顧録。扶桑社/1,500円。

主治医・星野概念 診断結果:ふとした瞬間に蘇る、甘酸っぱい思い出の数々。

 人の記憶は、エピソードとして想起されるという認識があるかもしれません。でも実は、エピソードとして残る記憶は、かなり印象的な事柄です。もっと細かい瞬間や、辛すぎて無意識的にエピソードとして残されない経験も、その時の体感だけは身体が記憶していたりします。漂う匂いとか、季節の空気感など、ふとしたきっかけで切ない感じになったり、理由なく少しワクワクすることがあると思いますが、それは体に刻まれた小さな体感の記憶が想起されている瞬間だと思います。このように、何かがきっかけで昔の体感が蘇るのが「フラッシュバック」です。本作は多くの「フラッシュバック」を生じさせる作品です。僕も色々なことを思い出しました。青森県の寺山修司記念館に女性と行き、大喧嘩の末タクシーで1人帰ったはずの女性が戻ってきて、なんで追ってこないのと言われる回では、自分が同じ記念館に女性と行った20歳頃と、高校時代唯一のデートの途中で相手が走っていなくなってしまった2つの思い出が蘇り、ほろ苦さに酸っぱさが混在するような感覚を得ました。缶蹴りで立て続けに鬼にされる子供の回では、胸に刺さる辛い感じがして、自分の子供時代のいつかと繋がったのかもしれません。ほかにもたくさん。読者ごとに蘇る感覚は異なり、それによってそれぞれに眠る、自分独特の小さな瞬間に触れるでしょう。経験は異なるのに体感を共有する、身体に響くエッセイ。作者の個人的な物語は、回によっては少し脚色されていたりするかもしれませんが、込められた体感はリアルなものに違いなく、その不思議な臨場感に、細かく胸打たれました。

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ほしの・がいねん

精神科医など。いとうせいこうとの共著に『ラブという薬』『自由というサプリ』がある。

編集/
大池明日香

本記事は雑誌BRUTUS924号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は924号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.924
必要な服だけを。(2020.09.15発行)

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