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人々の心の中に、スカルノが生きていたんですね。|デヴィ・スカルノ(第四回/全五回)

TOKYO 80s

No. 921(2020.08.03発行)
いい自転車。

 19歳でスカルノ大統領の元へとインドネシアへ渡ったことは、本を読んでもらえばわかりますが、若く、冒険心が強かったからできたんですね。その前に2人のお金持ちのアメリカ人に求婚されていて。結婚して母と弟を幸せにできるか、悩んでいた時だった。女優になるにはまだ道のりが遠い。そんな時に外国に行く話があって、行けば閃きがあるかもしれないと。日本の女性がパスポートを持って飛行機に乗ることすら珍しい時代。まず香港へ行って、バンコク、シンガポールを経由してジャカルタへ。1日半かかるんですよ。当時、地図を広げてもインドネシアは真っ白で、何も情報がない。それでも不安がなかったのは大統領のお客様ということと、興味と好奇心が強かったから。香港に着くと飛行場に難民が寝ている。シンガポールではインド人が白いふんどしみたいなのだけを着けて歩道に何人も横たわっている、イワシの缶詰みたいになって。まだね、1959年よ。そしてインドネシアに住み、政変があり、パリに生後3ヵ月の娘のカリナを連れて亡命したのが27歳。大統領が亡くなる70年にインドネシアに戻った後も、パリにいました。そして79年、大統領の三男が結婚する時にインドネシアに戻りました。スカルノ支持者の多くは囚われて、昔は各家庭や公の場所に肖像画が飾られていたのに、それも全部剥がされていて。そうした中、私が帰った時に、人々の心の中にはスカルノのイメージがずっと残ってたんでしょうね。私たち2人が通りに立つと1000人くらいの人に囲まれて、もう顔をぐっしょぐしょにして泣いて、私の体に触れてくるんです。私は自分の娘を一度はインドネシアに住まわせて、歴史を習わせ、きょうだいたちと仲良くしてもらうことが、妻として、母としての義務と責任だと思っていました。いよいよ時期到来だと。そして米英のエンジニア会社やフランスの建築会社、イタリーの重工業会社の総エージェントとしてインドネシアで10年働きました。私が贅沢な生活をできるのはスカルノ大統領の遺産だとか、大統領のおかげだと思われるのがすごく嫌で、スハルト政権下で私の能力はここまであるんですよって、みんなに示してあげる意気込みで。意地ですね。朝、秘書たちが8時に来る。私は7時からオフィスにいて、夜10時まで働いてましたよ。最後には自分で白亜のおうちを建てました。(続く)

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デヴィ・スカルノ

スカルノ元大統領夫人。著書に『選ばれる女におなりなさい』などがある。

PHOTO/
SHINGO WAKAGI
TEXT/
KUNICHI NOMURA
HAIR&MAKE/
MAKIKO GOTO
EDIT/
HITOSHI MATSUO

本記事は雑誌BRUTUS921号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は921号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.921
いい自転車。(2020.08.03発行)

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