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母に楽をさせたいというのが子供の頃の夢でした。|デヴィ・スカルノ(第二回/全五回)

TOKYO 80s

No. 919(2020.07.01発行)
東京の正解

 母は着物を縫ったりご近所の薪割りを手伝ったり、内職をして私の絵の才能を伸ばそうとしてくれました。私は2歳から絵を描き始めて、小学校に上がる頃には皆さんから天才だ、天才だって言われて育って。自分も画家になる気でいました。岡田節子さんという女子美術大学の名誉教授になられた画家のところで絵を習わせるために、母は内職をしてくれてたんです。中学の頃のある日、家に帰ると友達のお母さんが来ていて、「あれ?」と思って聞き耳を立てていたら、母が月謝を払えなくてお金を借りて、それを返せなくて謝っているんです。母をそんな目に遭わせてまで進学することはないと。私は内職の手伝いをして母を助けていましたから、時間がなくてあまり勉強はできなかったけれど、いつも学年で10番には入っていました。先生も学友も「進学しないの⁉」って驚いてましたけどね。当時、中卒の人はみんな工場に行ったんです。パピリオという化粧品会社の女工さんにね。月給が4000円、高卒だと8000円、大卒が1万円の時代。私は高望みして千代田生命の試験を受けて、450人の中から受かったのは3人。ほかの2人は千代田生命の社員の娘でしたから、外からは私1人。月給が6600円だったかな。昼休みは近くの喫茶店で、土日は銀座のコーヒーショップ、コンパルでアルバイトをして。夜は三田高校の定時制に通いました。あの頃の私は1日が30時間。1週間は10日間くらいに感じていました。よく学び、よく遊び、よく働き、でしたよ。遊びももちろんしました。(石原)裕次郎さんの『太陽の季節』が流行っていて、お友達と車で葉山や軽井沢に行ったり。いろんなことをしました。その頃に岡田先生が男性の名前で絵を出展しているのを見たんですよ。草間彌生さんは別格として、当時も今も女流画家の絵には値段がつかない。それで、ああ、私は画家になっても母と弟を養うことはできないんだわって。母に楽をさせたいというのが子供の頃の夢でしたから。ある日、母に連れられて新橋演舞場で舞台を観て、衝撃を受けたんです。女優に学歴は必要ない、画家はやめて女優になりたいと。それで東芸プロダクションに入って、演技、歌、ダンスを習いました。実践という形で松竹の撮影とか、日本テレビにも出てたんですよ。その頃に仲良くなったのが浅丘ルリ子さんで、まだ16歳でした。(続く)

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デヴィ・スカルノ

スカルノ元大統領夫人。著書に『選ばれる女におなりなさい』などがある。

PHOTO/
SHINGO WAKAGI
TEXT/
KUNICHI NOMURA
HAIR&MAKE/
MAKIKO GOTO
EDIT/
HITOSHI MATSUO

本記事は雑誌BRUTUS919号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は919号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.919
東京の正解(2020.07.01発行)

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