インターネットで「片山真理」と検索すると「両足義足のアーティスト」という言葉が、数多く目に飛び込んでくる。実際、彼女は先天的な足の病気を持って生まれ、9歳のときに両足を切断し、現在は義足で生活しながら、作品を発表し続けている。彼女の代表作は、自分自身や装飾された義足などが登場する写真と、縫い上げられた自作のオブジェやソファ、そして衣服などを組み合わせたインスタレーションであるため、「身体的ハンデを武器にしたアーティスト」という短絡的なイメージで見られることが少なくない。
そんな彼女が写真界の芥川賞と呼ばれる木村伊兵衛写真賞を受賞した。同賞が、作品の構成要素の一つとして写真を使う、いわゆる写真家ではない彼女のようなアーティストに賞を与えることは珍しい。だが、彼女はあえてその世界で勝負するために、自身の作品を写真集としてまとめ直し、出版した。
「写真の良いところは、どんな人物が撮ろうと、どんな被写体が写ろうと、最終的には一枚のイメージになるということです。オブジェだと制作技術に差が出るので、そういうわけにはいきません。ほかの写真家とも同じスタートラインに立てるという意味で、写真はとても平等で普遍的なメディアですよね。今までなにをするにしても自分の身体に絡めて作品を語られてきたので、今回シンプルに“写真”として評価されたことはとても嬉しかったです」
彼女の作品には、自分自身や義足が頻繁に登場するため、「セルフポートレート(自画像)」として評されることも少なくない。しかし、その世界にはモノにあふれた部屋や自然の風景などの舞台装置が設定されていて、その中に自身の身体が「無機質なモノ」として放置されているように見受けられる。
「よく自分自身を表現したいんですか? とか聞かれますが、まったくそんなことなくて(笑)、むしろ自分の身体はただのオブジェのように作品の中に登場させています。マネキンのような感覚ですね。同時に、画面の中に、数多くの謎の装飾品たちが雑然と無作為に置いてあるように見えるかと思いますが、これらのモノの配置も、カメラで見たときに自分にとって完璧な構図になるまで、現場で何度も試行錯誤しています。アトリエ内でさえ、既製品があったりモノが整然と並んでいたりすることが好きではないので、棚や道具箱も自分で書いた文字とか貼ってコラージュしますし、それらが絶妙な佇まいになるまでこだわって並べてしまいます。そういう意味では、自然と人工が混在する現在の社会には、あるがままのナチュラルな状態で美しいものは、実はそんなになくて、何かしらの作為が加えられたり、ハプニングに見舞われることで初めて、美しくなる瞬間が訪れるのだと思います」
そう聞くと、過剰にも見えるその作品世界にも納得ができる。虚構とも現実ともつかない舞台装置を作り込み、さまざまな演出を施し、一つのイメージを作り上げていく、それらの作品群は、写真というよりどこか絵画的だ。例えばイギリスの写真批評家であるシャーロット・コットンは自著の中で、物語を喚起させる絵画的要素の強い写真を「絵画」写真と呼んでいるが、そこにはこのようなことが書かれている。「この分野の写真の特徴は、まだ写真が汎用されない18世紀~19世紀の、人物画と深い関係にあるという点である。(中略)この種の絵画には、小道具や身振りによって作りだされる構図、また美術作品としての様式を通して、物語的内容を演出する(中略)タブロー写真は『コンストラクテッド(構成的)』または『シアトリカル(舞台的)』と評される。この分野の写真では、画面を構成する要素、そしてカメラアングルまでもが事前に厳密に設定され、制作者の思う通りのイメージに表現されるからです」(『現代写真論』2010年、晶文社、p.8)。
初期の創作活動の一つに絵画があったことを考えると、この文章は彼女の制作のスタイルと作品を理解するのにしっくりくる。では、ここでいうところの「物語的内容」とは彼女にとってどのようなものだろうか。それはやはり「身体的ハンデを武器にしたアーティスト」というストーリーでは決してない。
「障害のあるなしにかかわらず、生き物が生きるために持っている身体のアルゴリズムのようなものに美しさを感じます。同時に、どこまでが“自然”な身体なのかとも考えます。優生思想などがそうですが、人間は社会通念上“不自然”とされているものを嫌う傾向にあるけれど、手を加えられた身体は本当に不自然なのかな? と。私は、整形した顔のような、人工的で少しいびつに見える身体も、逆に手を加えられても成り立ってしまう妙なバランスに惹かれます。例えば片足がない人は、上半身の筋肉がすごく発達したりするのですが、そういうものには、生き物が動くために“つくられた”別の美しさを感じるんですよね」
作品内で扱っているのは、自然と人工の間にある新しい身体の物語だ。出発点は、彼女の“不自然”に見える身体や“人工的”な義足なのだが、極私的な空間の作り込みから最終的に一枚の写真へと至る表現のプロセスとともに、それらは「歪められたものの美しさ」を発見する物語へと変換される。作品はあくまで「自画像的創造」であって自画像ではない。そのような視点で作品を見直すと、一見過剰で不自然に見えるその作品世界は、危うくも自然な「美しさ」を伴って、我々に迫ってくる。

- photo/
- Chihiro Oshima (p.93 portrait)
- text/
- Shintaro Maki
本記事は雑誌BRUTUS916号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は916号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。