エンターテインメント

どうしてみんなグレン・グールド好き?

 

No. 916(2020.05.15発行)
クラシック音楽をはじめよう。
ニューヨークのCBSスタジオで演奏する若きグールド。

「最大の理由は名演奏の副産物ではない、彼が音楽活動の中心として行った録音物という作品に、手軽にアクセスできる点ではないでしょうか」。そう答えてくれたのは、グールドとはまた違った形でオリジナルなサウンドスケープを描き出す音楽家・原摩利彦。ここでは、彼なりのグールド観をさまざまな角度から語ってもらった。

「グールドって難しくて、迂闊に好きって言っちゃうと余計なものがいろいろ付いてくるんですよ、スノッブとかオシャレとかね」

 グールドは好きですかという直球の質問に、原摩利彦はおかしそうに、でもちょっと困ったような顔で答えた。たしかにグールドという記号はある時期イケメン男子のアクセサリーのようだったし、一般名詞化した「グールド好き」は原のような音楽家ならなおのこと、口にしづらいに違いない。それでも原は言う。

「でもそんなん考えること自体がアホらしいことで、今回グールドの作品を聴き直す機会を与えてもらって、新たな発見も素晴らしさの再確認もできた今なら素直に言えますよ、はい、大好きですって」

 アーティストはアーティストを知る。原さんが感じるグールドの素晴らしさを、存分に語ってください。

最初に原さんのグールドとの出会いについて教えてください。
原 摩利彦
出会いは、中学3年生の頃。ピアノの先生から「こういうモーツァルトもあるよ」とグールドのモーツァルトを聴かせてもらったのが最初です。ただそのとき僕は音大を目指してレッスンを受けていたので、真似しちゃいけない悪魔的な演奏というか、触れちゃいけない禁断の果実のような印象がありました。特に記憶に残っているのはピアノソナタ8番イ短調の第1楽章がメチャクチャ速く感じたこと。今聴くとそこまで速くはないんですが、僕の記憶には超高速モーツァルトとして刻まれているんです。あと、とても乾いた音だなという印象も受けました。
それはピアノの音色が?
そうです。同じ頃にクラウディオ・アラウか誰かのとても柔らかく響くモーツァルトの演奏を聴いていたので、その違いに驚いたんです。

グールドがもたらした 新たな価値観。

グールドを語るうえで、ある時点からレコーディングしかしなくなったことは外せません。音楽家としての彼の選択は理解できますか?
そうですね。僕自身、音源を作るというアプローチが中心ですから理解はできます。でもコンサートを一切しないというところまでは僕にはできそうにありませんけどね。

ただ、彼がコンサート活動をしたのはわずか7年ほどでしたが、その間にやるべきところではしっかり演奏している。とりあえず一回りはしているんですよ。やめたことばかりが取り上げられがちですが、やることをやったうえでやめる判断をした点を忘れちゃいけないと思います。
たしかにその通りですね。

レコーディングアーティストとしてはまさにパイオニア。何度もテイクを重ねて編集してベストの一曲を作り上げるというやり方は、今、僕らがやっているやり方ですから。もちろん一発録りには一発録りの良さがありますが、グールドは当時からスタジオ録音の本質を理解していたように思います。
グールドのピアノ演奏では何が一番の特徴だと思いますか?
クラシックのピアニストではない僕が語るのはおこがましいですが、グールド以前の演奏の美しさというのは、コンサートホールのような響きの長さ、音の柔らかさがベースになっていたと思うんです。先ほども言いましたが、グールドは乾いた美しさ、そして近い音像という新しい価値観を提示した。さまざまな価値観をクラシック音楽に持ち込んだことが最大の特徴ではないでしょうか?
演奏テクニックはどうですか?
もう完璧なタッチじゃないですか? 今回聴き直した中で改めて気づいたのは、アルペジオの一音一音の粒立ちの良さだったり正確さ。あ、アルペジオってこういうことだったのかって、教えられた気分です。ベートーヴェンの「ピアノソナタ1番」の第1楽章にはアルペジオが何度か出てきますが、出てくるたびに背筋がゾワッとしますよ。それはやはり彼の演奏技術、特に左手の演奏の素晴らしさだと思います。
左利きであることは、彼の演奏に影響を与えているのでしょうね。
バッハに代表される対位法の曲の場合は間違いなく有利だと思いますし、伴奏する場合にも存在感というか説得力が違う感じがします。あくまで聴き手としての印象ですが。
では、演奏中に彼が口ずさむハミングはどう感じますか?
80年代に録音されたハイドンのピアノソナタ集では、ほかのアルバムと違ってあのハミングがピアノ演奏と完璧に調和して聞こえるんです。初期に比べると録音やミックスが格段に進歩してますからそういう技術的な側面もあるとは思いますが、あの作品を聴くとハミングは決してノイズではなく、ハミングを含めた録音全体がグールドの音楽世界であり、作品なんだと感じられました。

グールドとノイズで言うと、少年時代の掃除機の有名なエピソードがありますよね。モーツァルトのフーガを練習しているグールド少年の横で家政婦が掃除機をかけ始め、掃除機の騒音でピアノの音がかき消されてしまった。しかしその瞬間にグールド少年は初めて、音楽そのものに触れられたことを実感した、という。

このエピソードは難しくて僕が正確に理解できているか自信はないのですが、自分ではピアノを弾いている実感はあるのだけれど耳から音は入ってこない、つまり指の感覚、体と音楽が一つになったんだろうと思うんです。その瞬間に純粋音楽みたいなものを感じられたのかなと。
よくわかります。
それに似たエピソードが京都にあるんですよ。大原に声明の名手として知られた良忍上人が創建した来迎院というお寺があって、奥に「音無の滝」という小さな滝があるんですが、良忍上人はその滝の前で声明の稽古をしたらしいんですね。そうすると最初は、滝の音にかき消されて自分の声明が聞こえない。でも修行を続けるうちに自分の声が聞こえるようになって声明と滝の音が打ち解け合い、そして最後には滝の音が消えて声明だけが響くようになった、という逸話が遺っています。グールドの掃除機の話を読んだときに、このエピソードを思い出したんです。

グールドは今の音楽状況を見通していたのか。

最後に独特のレパートリーについて。ピアニストが好んで弾くショパンやラヴェルあたりをグールドはほとんど弾いていないのですが、その点についてはどう思いますか?
正直に言えば、あれだけ売れっ子になったんだしいろんな曲の演奏を遺してほしかったというのは思います。今回、いろいろ聴いていく中で、グールドに弾いてほしかった曲がどんどん浮かんできて。
それはぜひ教えてください。
最初に思い浮かんだのが、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番ハ長調「ヴァルトシュタイン」。それからリゲティ「ムジカ・リチェルカータ」の7番もグールドの速い演奏で聴いてみたかった。ほかにもラモーの新クラヴサン組曲集第2番(第5組曲)「ソバージュ」やモンポウ「Impresiones intimas」……、ほかにもいろいろあると思いますが。
こればかりは見果てぬ夢ですが、想像してみるのも楽しいですね。それにしても、これまでに大ピアニストはたくさんいたわけですが、今の若い人に聴かれているという点ではグールドが圧倒的です。一体、何が違っていたんでしょうね。
僕が思うに、録音を作品のフォーマットとして考えた点が大きいんじゃないでしょうか。もちろんほかのピアニストの名盤もたくさんありますが、録音に対して常に意識的で、録音物を作品の中心に置いたという点でグールドは傑出していたと思います。そのおかげで現代の聴き手は、名演の副産物としての録音物ではなく、グールドがメインで取り組んだ第一資料に手軽にアクセスできる。グールドはこのことを見通していたのではないかと、ちょっと思います。
なるほど。とても明快な解説をありがとうございます。
グールドという人はクラシック音楽を違うジャンルに繋いでくれる人でもあったと思うんです。例えばクラシック音楽にはものすごくカッコイイ曲がたくさんあるんですけど、学校教育のイメージが強いのか、堅苦しいとかダサいといった印象がぬぐえない。そういうイメージを払拭してくれる存在としても彼はとても重要だったので、わずか50歳でこの世を去ってしまったというのは早すぎた。天才にありがちな生き急いだ印象もありますが、その後の世界も見てもらいたかったですね。

グールドを聴く、グールドを読む、 原摩利彦が選んだグールド作品10+1。

グレン・グールドに関する作品を紹介するにあたり、アルバム7作、著作3作、映像1作をセレクトしました。アルバムはすべてピアノソロから選んでいます。ソロを聴いてグールドに興味を惹かれたら、協奏曲やオーケストラとの共演作などに手を広げてもらえたら幸いです。(原 摩利彦)

①『ハイドン:後期6大ピアノ・ソナタ集』

今回グールド作品を聴き直した中で、最も驚かされたアルバム。偏見かもしれないけれどハイドンには“ザ・クラシック”みたいなイメージがあってちょっと聴きにくい存在だったのですが、そんな古くささが一切感じられない素晴らしい作品に仕上がっています。特に1曲目のピアノソナタ56番第1楽章の冒頭部分。ため息が出る美しさです。とても「現代的」な響きのするハイドン。グールドのハミングが遠くでほのかに聞こえますが、ピアノと声のバランスが映画の中の音楽のように錯覚します。録音技術の進化も大いに貢献していると思います。グールドの晩年に録音されたアルバムですが、最初にゴールドベルクを録音したときの才気煥発な若き天才性と、ブラームスの間奏曲に感じられる彼独特の優美さとが、見事に調和している素晴らしい演奏だと僕は感じています。僕が今、一番よく聴いているアルバムです。ソニー・クラシカル/2CDs 限定盤/1,485円。

②『GLENN GOULD PLAYS BACH: GOLDBERG VARIATIONS BWV 988』

バッハではやはり、最も有名な1955年録音の「ゴールドベルク変奏曲」と再録音された演奏の遅い81年盤がカップリングされたコレ。55年盤はモノラルなのでスピーカーで聴くことをオススメします。55年盤を聴き、ほかのディスクや著作を読んだ後に81年盤を聴くとすっと入ってくるように思います。Sony Classical/輸入盤。

③『ブラームス:間奏曲集』

若く聡明なグールドがブラームス晩年の作品を弾いています。とにかく「Op.118 No.2イ長調」が美しい。椅子のノイズが左チャンネルから聞こえ、サーというヒスノイズはやや右チャンネルに多い、そんなことも含めて好きです。グールドのアルバムは高音が左にあって、不思議に感じます。ソニー・クラシカル/SACD/2,800円。

④『GLENN GOULD IN CONCERT 1951−1960』

若きグールドがヴェーベルンの「ピアノのための変奏曲Op.27」をどう弾いたのかという興味で選びました。十二音技法を厳格に使いながらこれほどまでにキャッチーな演奏を僕は知りません。31歳でコンサート活動を引退した彼がどのように演奏していたかを知ることができる貴重なディスク。West Hill Radio/6CDs/輸入盤。

⑤『ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」・第14番「月光」・ 第23番「熱情」』

8番の第3楽章の軽快さと23番第2楽章の重厚な和音、超有名ソナタが収録された大変興味深いアルバムです。ベートーヴェンはほかにも有名な後期ソナタの演奏や完璧なスタッカートで始まるピアノソナタ1番などがありますが、聴き比べもしやすいのではないかと思い選びました。ソニー・クラシカル/SACD/2,800円。

⑥『グレン・グールドは語る』

初出はローリング・ストーン誌。ビートルズなどについて語った発言などもあり、読みやすい入門書。「ジョージ・セル事件」はNetflixのドキュメンタリーのようにスリリングです。『グレン・グールド著作集1&2』(みずず書房)への助走。グレン・グールド、ジョナサン・コット著、宮澤淳一訳。ちくま学芸文庫/1,100円。

⑦『グレン・グールド 未来のピアニスト』

『孤独のアリア』やその他の語りによって作られたグールドのある種の孤高なイメージに、ピアニストでもある著者らしい視点から光を照射している作品。現代的な視点もあり、グールドの演奏への洞察も素晴らしく、ディスクを聴きながら読み進めるのも面白いのではないでしょうか。青柳いづみこ著。ちくま文庫/1,200円。

⑧『モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集』

初めて聴いたグールドの演奏。「ピアノソナタ8番イ短調」の第1楽章の速さに驚きました。でもモーツァルトの天衣無縫な性格を考えると意外と面白がったかもしれません。今聴くとそこまで悪魔的でもなく、ヘッドホンをすると残響音も思っていたより長いことに気づきます。ソニー・クラシカル/4CDs SACD/8,000円。

⑨『バード&ギボンズ:作品集』

バードもギボンズもグールドが発掘したと言っていい17世紀の作曲家。ピアノの内部に入ったような音のするアルバムです。グールドによるライナーノート(『グレン・グールド著作集1』)を併せて読むのも面白い。彼の頭の中で鳴っていた音楽とその宇宙はどんなものだったのだろう。ソニー・クラシカル/限定盤/1,000円。

⑩『グレン・グールド 孤独のアリア』

伝記でもない少し変わった本。読んでいく途中、著者が「耳を澄まして」書いていることに気づいて、フィールドレコーディング的に孤独な状況を作って執筆したのではないかという気がしました。それでも僕のグールド体験には欠かせない一冊です。ミシェル・シュネデール著、千葉文夫訳。ちくま学芸文庫/1,100円。

『グレン・グールド 27歳の記憶』

原題は『Off the record On the record』。若き日のグールドが生き生きと演奏している姿や愛犬と散歩している姿などを観ることができるドキュメンタリー。『未来のピアニスト』と同じく「孤独=暗い」とは違う光が差し込んでいます。エンドロールが流れる中、一人でピアノ倉庫で弾いている演出が素敵です。DVD/絶版。

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グレン・グールド略歴

1932年9月 ーー カナダ・トロントに生まれる。幼少時から音楽に天賦の才を発揮する。
1950 12月ーー カナダCBCネットワークのラジオリサイタルでラジオ初出演。
1955 1月ーー ワシントンのフィリップス・ギャラリーでアメリカ初公演。
6月ーー ニューヨークのCBSスタジオにて「ゴールドベルク変奏曲」を録音。
1956 1月ーー 『ゴールドベルク変奏曲』発売。ベストセラーに。
1959 8月ーー ザルツブルク音楽祭出演。
1964 3月ーー シカゴ・オーケストラホールにてリサイタル。最後の公開演奏。
1981 5月ーー 55年と同じスタジオで「ゴールドベルク変奏曲」を再録。
1982 10月ーー 脳卒中で死去。享年50歳。

原 摩利彦 ●ピアニスト
はら・まりひこ/1983年生まれ。音楽家。ポストクラシカルから音響的サウンドスケープまで、静謐な音像世界を現出させる若き旗手。最新アルバム『PASSION』は6月5日発売予定。http://marihikohara.com/

interview/
Yoichi Iio
illustration/
Yoshifumi Takeda
text&edit/
Kaz Yuzawa
photo/
Getty Images

本記事は雑誌BRUTUS916号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は916号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.916
クラシック音楽をはじめよう。(2020.05.15発行)

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