人生

石原裕次郎さんは、僕の生涯の大恩人です。| なかにし礼

TOKYO80s

No. 892(2019.05.01発行)
居住空間学2019

なかにし礼(最終回/全四回)

 昭和38(1963)年の夏の終わりに、新婚旅行で訪れた伊豆の下田で石原裕次郎さんと出会いました。彼は有名なスター、僕は一介の苦学生。それが向こうから声をかけてきた。指を差されて「君たちは新婚かい? 新婚カップルがたくさんいるから品評会をやってたんだ。君たちが一番かっこいいね」と。ビールをご馳走になって、僕がシャンソンの訳詩をしている苦学生だと知ると、「こりゃ、嫁さんを食わせていけるか心配だな。日本の歌を書いて持ってきなよ」と言うんです。大スターの言葉を真に受けてはいけないと1年は書かなかったんですけどね。心にその言葉が残って訳詩に身が入らない。一種マジックをかけられたようでした。作詩作曲をして石原プロに持っていき、半年くらい経ったある日、電話がかかってきました。スタジオに行ってみると、早川博二さんのアレンジですごく綺麗な曲に仕上がっていました。でもあまり売れなくてね。ダメかなと思ったら、和田弘とマヒナスターズがこの歌を気に入って、自分たちもやりたいと。そしたら40万枚のヒット。自分の歌が街から流れてきてね、嬉しいなんてもんじゃなかったです。昭和41(1966)年のこと。生まれて初めてヒット賞をもらいました。その頃には「知りたくないの」もヒットして各レコード会社からオファーが殺到。何十曲という仕事がありました。裕次郎さんは僕の大恩人です。彼の最後の歌も書かせてもらいました。僕が印税を稼ぐようになると、実の兄が寄ってきてインチキ事業の責任を取らされ何億という借金を背負うことに。売れっ子作詩家の華やかな生活の裏側です。でもそれが別のエネルギーになって作品を生む。あらゆるエピソードが繋がって一つの筋書きになるんですよね。昭和が終わると、小説家になる勉強を始めました。満州の戦争体験をぜひとも書いておきたかったからです。それが小説家を志した理由。兄が死んで、まずはその関係を清算する『兄弟』を書いて、直木賞の最終に残った。そして次の作品『長崎ぶらぶら節』で直木賞受賞。晴れて小説家になりました。3作目の『赤い月』もベストセラーになり、僕が書いた小説は映画にも朝ドラにもなった。作家生活として何の文句もないですよ。人生を振り返ると、鼻歌まじりに真面目に生きたなと。志を決めて、それが揺るがなかったことが、今に繋がったと思っています。

(了)

なかにし・れい

1938年生まれ。作家、作詩家。近著に『芸能の不思議な力』。

第1回第2回第3回第4回

PHOTO/
SHINGO WAKAGI
TEXT /
KUNICHI NOMURA
EDIT/
HITOSHI MATSUO

本記事は雑誌BRUTUS892号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は892号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

No.892
居住空間学2019(2019.05.01発行)

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